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渡辺崋山の師である谷文晁は中国画や洋風画、大和絵風や琳派風の作品など様々な画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水画です。また、弟子の崋山も多くの山水画を描きました。その昔、今の西洋にあこがれるように中国にあこがれた日本の画家達の作品に、遠く思いを馳せながらご鑑賞ください。 |
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特別展示室 |
指定 |
作品名 |
年代 |
作家名 |
備考 |
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楼閣山水図(ろうかくさんすいず) |
文政9年(1826) |
谷 文晁(たにぶんちょう) |
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山水図(さんすいず) |
寛政年間 |
谷 文晁 |
個人蔵 |
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千山万水図(せんざんばんすいず) |
文化4年(1807) |
谷 文晁
柴野栗山賛(しばのりざん) |
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水墨山水図(すいぼくさんすいず) |
江戸時代後期 |
谷 文晁 |
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山水図(さんすいず) |
江戸時代後期 |
谷 文晁
大窪詩仏賛(おおくぼしぶつ) |
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市文 |
秋山瀑布図(しゅうざんばくふず) |
文政5年(1822) |
渡辺崋山(わたなべかざん) |
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市文 |
水郷驟雨之図(すいごうしゅううのず) |
文政9年(1826) |
渡辺崋山 |
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風雨行旅図(ふううこうりょず) |
天保7年(1836) |
渡辺崋山 |
個人蔵 |
重文 |
黄粱一炊図(複製)(こうりょういっすいず) |
天保12年(1841) |
渡辺崋山 |
原本は個人蔵 |
重文 |
千山万水図(複製)(せんざんばんすいず) |
天保12年(1841) |
渡辺崋山 |
原本は個人蔵 |
山形
県文 |
渓澗野雉図(複製)(けいかんやちず) |
天保12年(1841) |
渡辺崋山 |
原本は山形美術館蔵 |
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石竹図(せきちくず) |
天保9年(1838) |
渡辺崋山 |
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春暉暁艶図(しゅんきぎょうえんず) |
文化8年(1811) |
谷 文晁 |
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猛虎図(もうこず) |
江戸時代後期 |
谷 文晁 |
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市文 |
四季山水図画冊(しきさんすいずがさつ) |
天保8年(1837) |
渡辺崋山 |
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市文 |
山水画稿帖(さんすいがこうちょう) |
江戸時代後期 |
渡辺崋山 |
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日光山志 一(にっこうさんし) |
天保7年(1836) |
植田孟縉編(うえだもうしん)
渡辺崋山画 |
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日光山志 四(にっこうさんし) |
天保7年(1836) |
植田孟縉編
谷 文晁画 |
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山形
県文 |
熊野舟行図巻(複製)(くまのしゅうこうずかん) |
文化元年(1804) |
谷 文晁 |
原本は山形美術館蔵 |
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渡辺崋山 [わたなべ かざん] |
寛政5年(1793)生まれ、天保12年(1841)に歿す。
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄り役に至っている。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。 |
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谷文晁 [たに ぶんちょう] |
宝暦13年(1763)生まれ、天保11年(1840)に歿す。 字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所がいる。 |
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