赤羽根文化会館(田原市赤羽根町赤土1番地)にて平成17年1月16日(日)まで「鈴木敏雄コレクション−陶磁器」(中国・朝鮮・日本陶磁器23点)を展示しています。ご覧ください。
谷 文晁 宝暦8年(1758)〜天保11年(1840) |
文晁は漢詩人として名高い谷麓谷の長男として江戸に生まれました。父は徳川御三卿の田安家の家臣でもあり、文晁は12歳の頃より狩野派、17歳からは中国北宗画・南宗画を学び、26歳で田安家へ出仕し、30歳で後に寛政の改革を行う松平定信付になり、生涯の大半を定信の御用絵師として過ごします。文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。40歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。江戸画壇の大御所として多くの画人に影響を与えています。 |
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渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。 |
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渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887) |
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれました。崋山が亡くなった時にはわずかに七歳であったため、崋山からの影響は多くありません。その後、弘化四年(一八四七)十三歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得しました。江戸在勤の長兄立が二十五歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めました。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、五十三歳で病没しました。 |
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鏑木華国 明治元年(1868)〜昭和17年(1942) |
華国は田原藩士鏑木轍の長男として生まれました。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学びます。明治43年に崋山会が創立されると、常務理事となります。同年、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めました。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなりました。 |
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