平常展 贋物(にせもの)とレプリカを見てみよう
展示期間 平成16年11月18日(木)〜平成16年12月26日(日)

 渡辺崋山は、江戸時代後期を代表する文人画家ですが、贋物の多い作家として知られています。田原市博物館では、崋山作品を研究するために、多くの贋物を見る機会があります。これらの作品は寄贈されるものもあり、展示されることもなく、収蔵されています。さて、あなたは本物と贋物の区別がつきますか?名品と言われる作品の複製も同時に見てみましょう。
 
展示作品リスト
特別展示室
指定
作品名
作者名
年代
備考
重文 四州真景図(ししゅうしんけいず)(複製) 渡辺崋山(わたなべかざん) 文政8年(1825) 原本個人蔵
  斎藤香玉一家宛(さいとうこうぎょくいっかあて)
書簡(しょかん)
伝 崋山   天保年間 写本
  真木定前宛書簡(まきさだちかあてしょかん) 伝 崋山 天保8年(1837)? 12月28日 写本
  画論文章(がろんぶんしょう) 伝 崋山 天保9年(1838)? 渡辺小華贋鑑定付
  贋物(にせもの)      
  秋江観月図(しゅうこうかんげつず) 伝 崋山 江戸時代後期  
  達磨像(だるまぞう) 伝 崋山 文化9年(1826)?  
  楊太真吹笛之図(ようたいしんふきふえのず) 伝 崋山    
  墨梅図(ぼくばいず) 伝 崋山    
  山水図双幅(さんすいずそうふく) 伝 崋山 天保3年(1832)?  
  溪山細雨図(けいざんさいうず) 伝 崋山 天保9年(1838)? 写本
  朱鍾馗図(しゅしょうきず) 伝谷文晁 江戸時代後期  
  俳画 夕立(はいが ゆうだち) 伝 崋山    
  竹ニ軍鶏之図(たけにしゃものず) 伝渡辺小華(わたなべしょうか)    
  海辺群鶴之図(かいへんぐんかくのず) 伝渡辺小華 明治9年(1876)?  
  複製(レプリカ)      
重文 佐藤一斎像(さとういっさいぞう)(複) 渡辺崋山 文政4年(1821) 原本東京国立博物館蔵
重美 佐藤一斎像稿第二(さとういっさいぞうこうだいに)(複) 渡辺崋山 文政年間 原本個人蔵
重美 佐藤一斎像稿(さとういっさいぞうこう)
第十一(だいじゅういち)(複)
渡辺崋山 文政年間 原本個人蔵
国宝 鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本東京国立博物館蔵
重文 市河米庵像(いちかわべいあんぞう)(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本東京国立博物館蔵
重文 市河米庵像稿(いちかわべいあんぞうこう)(複) 渡辺崋山 天保年間 原本東京国立博物館蔵
  孔子像 摸写(こうしぞう もしゃ) 鏑木華国(かぶらぎかこく) 明治22年(1889)  

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。

赤羽根文化会館(田原市赤羽根町赤土1番地)にて平成17年1月16日(日)まで「鈴木敏雄コレクション−陶磁器」(中国・朝鮮・日本陶磁器23点)を展示しています。ご覧ください。

ワンポイント解説
にせもの【贋物・偽物】=似せてつくったもの。偽物ぎぶつ。偽造品。
複製・レプリカ【replica】=模造品。複製品。模写。模作。
 
複製制作の過程(田原市博物館のやり方)
  1. 写真撮影:特製のモノクロフィルム(530o×430o)で、原寸大に撮影をし(フィルムより大きな資料は分割撮影)、別に4×5カラーフィルムで撮影を行う。同時に、専門技術者による色採りを行い、参考とする。

  2. コロタイプ製版:原寸大撮影した原版より、色版を製作し、製版用板ガラスに貼り込み、印刷用板ガラスに感光剤を塗布し、その上に、製作した原版をカーボンライトにより、焼き付け処理を行う。

  3. 印刷:印刷用原版(板ガラス)をコロタイプ印刷機にかけ、特漉和紙または絹に、色別に印刷を重ねる。

  4. 校正:専門技術者による彩色後、校正をし、微調整を行う。

  5. 仕上げ:表装等をほどこす。
 
作品の見どころ
四州真景図(複製) 渡辺崋山
 文政8年(1825)6月29日から7月上旬にわたり、33歳の崋山が武蔵・下総・常陸・上総の4か国を旅した時のスケッチで、全4巻から成ります。1巻は行程記録、2巻は行徳・釜原など10図、3巻は潮来・銚子など11図が載せられています。

佐藤一斎像(複製) 渡辺崋山
 一斎は、岩村藩出身で、天保12年(1841)には幕府の儒官となります。崋山は19歳頃から一斎に儒学を学びます。絵の上にある賛は、一斎の筆で「似るも似ないも筆の技である。我が像は、よく似て真を表す。これは神技である」と書いています。数点の下書きが知られています。

鷹見泉石像(複製) 渡辺崋山
 泉石は古河藩の家老で、崋山にとっては蘭学研究の先輩にあたります。泉石が仕えた古河藩が大坂で起きた大塩平八郎の乱を鎮定後、藩主土井家の江戸の菩提寺に代参した泉石の姿を記録したものと伝えられています。やや太く連続しない衣線で平面的に表現された体、烏帽子の紐という東洋画的に描いた部分と対象的に、光があたる顔の部分には立体感を表現する西洋の陰影技法を使用しています。また、脇差と脇差にかかるように描かれた紐は立体的に描き、西洋と東洋の調和が19世紀に織り成した崋山肖像画の最高傑作です。

市河米庵像(複製) 渡辺崋山
 崋山の描いた肖像画のほとんどは、向かって斜めやや左を向いています。鼻筋の線を見せるためには、この角度の描き方はまさに日本人好みと言えるのでしょう。しかし、この作品はほぼ正面を向いています。

孔子像 摸写 鏑木華国
 孔子像の原本は、天保9年(1838)、崋山46歳の時の作品です。この孔子像は、中国の呉道玄の描いた木版画の孔子像を参考にしていると考えられます。この作品は田原藩校成章館で行われた孔子を祭る儀式である釈奠(せきてん)のために描かれ、図中右には「天保戊戌五月念三日後学三宅友信薫沐拝寫」の落款が記されています。田原藩士の家に生まれ、崋山会創立に尽力した鏑木華国が模写したものです。
 
作者の略歴
谷 文晁  宝暦8年(1758)〜天保11年(1840)
 文晁は漢詩人として名高い谷麓谷の長男として江戸に生まれました。父は徳川御三卿の田安家の家臣でもあり、文晁は12歳の頃より狩野派、17歳からは中国北宗画・南宗画を学び、26歳で田安家へ出仕し、30歳で後に寛政の改革を行う松平定信付になり、生涯の大半を定信の御用絵師として過ごします。文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。40歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。江戸画壇の大御所として多くの画人に影響を与えています。

渡辺崋山  寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

渡辺小華  天保6年(1835)〜明治20年(1887)
 小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれました。崋山が亡くなった時にはわずかに七歳であったため、崋山からの影響は多くありません。その後、弘化四年(一八四七)十三歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得しました。江戸在勤の長兄立が二十五歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めました。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、五十三歳で病没しました。

鏑木華国  明治元年(1868)〜昭和17年(1942)
 華国は田原藩士鏑木轍の長男として生まれました。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学びます。明治43年に崋山会が創立されると、常務理事となります。同年、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めました。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなりました。
 
次回予告
新春企画展田原市博物館館蔵名品選−渡辺崋山と関係画家を中心に(企画展示室)
平成17年1月1日(土)〜3月211日(月)
※休館日 毎月曜日、ただし、1月10日は開館し、1月4日(火)・11日(火)、2月8日(火)・9日(水)は展示替のため臨時休館
 
田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp