田原の歴史 田原城藤田曲輪出土品展
展示期間 平成16年8月25日(水)〜平成16年10月3日(日)
企画展示室2
資料名 時代 備考
田原城修補絵図 正徳5年(1715)  
元様式青花花瓶 14世紀 中国元時代
SX13出土遺物 16C初(戦国時代) 土師質鍋、土師皿 ・白磁皿・青磁碗(中国産)、 擂鉢(瀬戸美濃産)、甕(常滑産)
SD3出土遺物 16C初(戦国時代) 土師皿、土師質鍋、染付碗・白磁皿・青磁碗(中国産)、天目茶碗・灰釉端反皿・灰釉腰折皿・擂鉢(瀬戸美濃産)
SK18出土遺物 16C中(戦国時代) 土師皿、染付皿・白磁皿・青磁碗(中国産)、天目茶碗・灰釉丸碗・擂鉢 (瀬戸美濃産) 、甕(常滑産)、渥美甕(13C)
SK17出土遺物 16C後(戦国時代) 土師皿、染付皿・白磁皿・白磁坏(中国産)、天目茶碗、擂鉢(瀬戸美濃産)
SK5出土遺物 16C後(戦国時代) 土師皿、土師質鍋、染付皿・白磁皿・青磁盤 (中国産) 、天目茶碗・灰釉端反皿・鉄釉丸皿・擂鉢(瀬戸美濃産)、 甕 ( 常滑産)
SK14出土遺物 16C後(戦国時代) 染付碗・白磁皿・青磁盤 (中国産 )天目茶碗、灰釉端反皿、灰釉丸皿、 鉄釉稜皿、擂鉢 (瀬戸美濃産)

検出面の出土遺物 (2面)

16C末(戦国時代) 土師皿、天目茶碗・灰釉丸碗・灰釉豆皿・内禿皿・鉄釉稜皿・ 水滴・ 志野丸皿・ 志野菊皿(瀬戸美濃産)
検出面の出土遺物(2〜1面) 16C末〜17C前半 天目茶碗・灰釉平碗・鉄釉丸皿・青織部菊文折緑皿・ 志野茶碗・志野皿・ 内禿皿・ 緑釉天目茶碗・黄瀬戸鉢(瀬戸美濃産)
SX9出土遺物 19C前半 茶碗・梅文皿・半胴甕(瀬戸産)、土師質鍋

SX11(地鎮遺構?)
出土遺物

17C初 土師質鍋
SK25・26出土遺物 19C前半 半胴甕、染付碗、馬目皿、餌じょく (瀬戸産)
土製品 戦国時代 土製錘、陶製錘
焼塩壷 19C前半 蓋、身
金属製品 戦国時代 鎧小札、和鏡、鞘尻
銅銭   聖宋元宝 祥符元宝 永楽通宝 熈寧元宝 元符通宝 政和通宝(篆書) 嘉祐元宝 皇宋通宝
石製品 戦国時代 砥石、擂鉢片を利用した砥石、常滑甕片を利用した砥石、茶臼、硯

※各遺構出土の遺物は、同じ時期のものばかりではなく、新しいもの古いものが混ざっています。
モノの消費は壊れにくいものは長く使われ、土師質の鍋、消耗の早い擂鉢は短い期間で捨てられます。遺構の時期は、消耗の早い遺物の中で最も新しい遺物で決定するのが原則です。


田原城主の変遷

田原城は、戸田宗光の渥美半島統一の拠点として文明 12 年 (1480) 頃築城されました。
戸田氏時代 1480 〜 1547 年 宗光・憲光・正光・宗光・堯光
今川領国時代 1547 〜 1565 年 天野氏、朝比奈氏が城代
本多氏(家康領国)時代 1565 〜 1590 年 広孝、康成
伊木氏(池田輝政領国)時代 1590 〜 1601 年 吉田城主の城代、伊木清兵衛
近世戸田氏時代 1601 〜 1664 年 尊次、忠能、忠昌 天草へ移封
三宅氏時代 1664 〜 1869 年 三河挙母より移封
 

田原城藤田曲輪について

藤田丸は田原城の北端に位置し、田原湾を見下ろす絶景の場所です。また、城の防御面からも本丸の背後を固めるために重要な場所でした。藤田曲輪の由来は、築城以前にこの周辺に住んでいた土豪「藤田氏」によるものとされています。
寛文4 (1664) 年、戸田忠昌が天草に転封される時、「この地を去るのはいたしかたないが、鯖の刺身と藤田丸からの眺めは捨てがたい。」と言って去っていったといいます。その逸話どおり、主に江戸時代では、茶室、隠居の一時的な居住域風流を楽しむ場所として位置付けられていました。
今回の展示は、平成5年度に実施した発掘調査で出土した遺物を展示しています。調査では戦国時代の陶磁器類が多量に出土しました。また、築城当初の軍事的な空間から、徐々に敷地を整地しながら、近世においては風流を楽しむ空間に変遷した過程が判明しました。

 

戸田氏が所有した元の染付(青花)

平成5年度の調査では、戸田氏の時代(15世紀末〜16世紀中)に使われた大量の陶磁器類が発見されました。その中で目を引くのは青・白磁、染付(白地に青の文様の焼物)の碗、皿などの中国産陶磁器です。この中には、中国の元時代の染付が含まれていました。元の染付は全国でも20例程度しか発見されておらず、東海地方では2箇所しか見つかっていません。発見されるのは戦国大名クラスの城か有力寺院で、全国でも田原城レベルの城では東京の葛西城だけです。
元の染付は14世紀中頃に作られており、戸田氏の全盛期と200年ほどの開きがあります。現代人が江戸時代の骨董品を所持していたのと同じ感覚です。また、全国でも発見例が少ないとなると、当時でも貴重品だったのは間違いありません。当時の中国文化への憧れは相当のもので、なかでも元の染付はステータスシンボルでした。戸田氏は会所などに飾る美術品として入手したものでしょう。
戸田氏の全盛期は渥美半島から知多半島までがその治めるところでした。三河湾はもとより伊勢湾の海上交通に大きな力を持っていたことと思われ、海上交通で得た財力により元の染付を入手したのでしょう。しかし、これほどまでの勢力を持っていた戸田氏も、1547年、今川氏に滅ぼされてしまいました。調査で出土したバラバラに壊れ、焼けた跡のある陶磁器破片を見ると、戦国時代の厳しい状況がうかがわれます。

 
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