平常展 渡辺崋山と師弟−水と花
展示期間 平成16年8月25日(水)〜平成16年10月3日(日)
特別展示室
指定
作品名
作者名
年代 備考
重文 四州真景図(ししゅうしんけいず) 渡辺崋山(わたなべかざん) 文政8年(1825) 原本個人蔵
  琢華堂画譜(たっかどうがふ) 椿 椿山(つばきちんざん) 天保14年(1843) 全10冊のうち4冊
  夏景山水図(かけいさんすいず)
(春江泛舟図(しゅんこうはんしゅうず))
谷 文晁(たにぶんちょう)    
市文 仙鶴霊亀図(せんかくれいきず) 谷 文晁 江戸時代後期 双幅
  丁令威之図(ていれいいのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  蘭亭曲水宴之図(らんていきょくすいえんのず) 谷 文晁 天保9年(1838)  
  躑躅和歌(つつじわか) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  両国橋納涼之図(りょうごくばしのうりょうのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  捉魚図(ろ じそくぎょず)(複製) 渡辺崋山 天保11年(1840) 原本出光美術館蔵
市文 花卉屏風(かきびょうぶ) 椿 椿山 嘉永4年(1851) 六曲一双
  美人浴出之図(びじんよくしゅつのず) 山本きん谷(やまもときんこく) 明治3年(1870) 個人蔵
  八家合作書画(はっかがっさくしょが) 椿 椿山
平井顕斎(ひらいけんさい)
萩原秋巌(はぎわらしゅうがん)
小田川(おだほせん)
岡本秋暉(おかもとしゅうき)
高久隆古(たかくりゅうこ)
大竹培造(おおたけますぞう)
原田曲斎(はらだきょくさい)
江戸時代後期 個人蔵
  雨中猛虎之図(うちゅうもうこのず) 渡辺小華(わたなべしょうか) 明治18年(1885) 個人蔵
  蓮池秋色図(れんちしゅうしょくず) 渡辺小華 明治11年(1878) 個人蔵

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。


展示の見どころ

四州真景図(複製) 渡辺崋山

 文政8年(1825)6月29日から7月上旬にわたり、33歳の崋山が武蔵・下総・常陸・上総の4か国を旅した時のスケッチで、全4巻から成ります。1巻は行程記録、2巻は行徳・釜原など10図、3巻は潮来・銚子など11図が載せられています。

琢華堂画譜 椿椿山

 虫、鳥、草花、果実にいたるまで多種多様なものを画材にしています。どちらかといえば、写意的な表現で味のあるばかりですが、特に注目したいのは色づかいです。微妙な色による質感の表現は微妙です。印章は椿山自身が押したものではなく、後押しと思われます。

夏景山水図(春江泛舟図) 谷文晁

  寛政時代には、着色画も多く見られる文晁ですが、水墨作品でも濃淡で微妙な遠近感を表す技能を完全に習得していることがわかります。のちの烏(からす)文晁時代のダイナミックな表現を予感させます。

仙鶴霊亀図 谷文晁

 文政後期、谷文晁六十歳代の作品と思われます。仙桃の果実の下、波上に翼を広げた仙鶴と、海上の霊亀は万年の息吹の中に21の群蝶が乱舞する様を描いています。鶴と亀はいずれも寿命が長く、めでたいものとされ、縁起物の画題として需要があり、類作も多く残されています。

丁令威之図 渡辺崋山

 丁令威は漢代の人で、仙術を学び、鶴に化して天に昇ったといわれます。

蘭亭曲水宴之図 谷文晁

 蘭亭の会は、晋の時代である永和9年(353)3月に、謝安(320〜385)・王羲之(307?〜365?)ら名士41人が蘭亭に会し禊をし、曲水に觴(さかずき)を流して詩を賦したことを指す。画面中央の庵の中で机上揮毫しているのが王羲之である。需要があり、かつ文人画家には人気のある画題で、濃彩な青緑山水図が多い文晁には、文化年間前半から青緑、朱紅等のあでやかな色を使用した類作が多く、作品に気品が漂う。

躑躅和歌 渡辺崋山

 「わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」
  「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したものです。文政年代のものと思われます。

両国橋納涼之図 渡辺崋山

  両国橋は隅田川に架かる橋で、現在の東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。寛文元年( 1661 )完成。現在の長さ 162 メ - トル。江戸時代から川開きの花火の名所でした。「崋山」の号を使用しており、30歳代後半の作品と考えられます。

 捉魚図(複製) 渡辺崋山

 「」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品です。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれています。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作です。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
  款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる 記述があり、内容は「青緑山水、?茲捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されています。
 「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いています。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっています。

 

作者の略歴

谷 文晁  宝暦8年(1758)〜天保11年(1840)

  文晁は漢詩人として名高い谷麓谷の長男として江戸に生まれました。父は徳川御三卿の田安家の家臣でもあり、文晁は 12 歳の頃より狩野派、 17 歳からは中国北宗画・南宗画を学び、 26 歳で田安家へ出仕し、 30 歳で後に寛政の改革を行う松平定信付になり、生涯の大半を定信の御用絵師として過ごします。文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。 40 歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。江戸画壇の大御所として多くの画人に影響を与えています。
 

渡辺崋山  寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

  崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、 40 歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保 12 年に田原池ノ原で自刃しました。

椿 椿山  享和元年(1801)〜安政元年(1854)

  椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧 ( 小華 ) を養育し、花鳥画の技法を指導しています。

渡辺小華   天保6年(1835)〜明治20年(1887)

  小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれました。崋山が亡くなった時にはわずかに七歳であったため、崋山からの影響は多くありません。その後、弘化四年(一八四七)十三歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得しました。江戸在勤の長兄立が二十五歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めました。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、五十三歳で病没しました。
 
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