渡辺崋山像 |
巻き止めには「崋山先生四十五歳 癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られます。この像には三回忌の年にあたる天保十四年六月七日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化四年四月十四・十五日に描かれた画稿の存在が知られています。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めています。15年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝えています。
黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据え、面貌はとくに精緻に描かれていますが、衣服は簡略に写意的に描き、切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいます。机に置いた右手は、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようです。生前の崋山は手の動きを起点とし、椿山に語りかけていたのでしょうか。
なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのでしょうか。崋山は、その翌年に、藩の職を辞す願書を提出し、自らの蔵書を藩に寄贈します。つまりこの年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたります。この一連の事情を知っている椿山は、その四十五歳の転機の姿ポートレートとして記録し、供養したとも考えられます。 |
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渡辺巴洲像画稿 |
この絵は崋山の父、巴洲の肖像である。とても人柄の優しさ、温かさがにじみでている作品である。父が六十歳で亡くなった時に涙で泣きむせびながら筆を走らせたと言われており、崋山の父に対する愛情があふれているのではないだろうか。
側に刀を置き痩身で端座する巴洲の謹厳な肖像には、款記に「巴洲先生渡邊君小照」とあり、図下に、「大学様御寺柳町浄土法伝寺、水戸御寺浅草清光寺、駒込大乗寺、播磨様御寺極楽谷宗慶寺」と書かれている。
枯相を写生したもの、左向き、斜左向き、上半身を描き添えたもの、画面を彩色したものの五種の草稿がある。描くことで、深い悲しみを癒すこととなったのではなかろうか。 |
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日月大黒天図 |
落款に「是十月、阿母君所夢也。命児登寫之。時十一月朔子謹記」とあります。ある夜、崋山の母、栄は日月大黒天を夢に見ました。崋山が蟄居を命ぜられ、江戸から田原へ来て寂しく貧しい日々の暮らしの中で見た夢でした。その大黒天の姿は頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえるという、お決まりの姿でした。渡辺家も田原へ来てから十か月が経ち、暮らしも落ち着いてきました。平和な日々を夢見た母の依頼により描いたものです。大黒天のにこやかな顔と衣線画が東洋画独特の太い線で表され、さらにおめでたい太陽と月が同時に空に見られるという背景を加え、ほのぼのとした家族愛を見る者に感じさせています。 |
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孔子像と孔門十哲像について |
この作品は中国唐時代の呉道元(?〜792)の筆と伝えられる孔子像を基にしたものと思われます。画面の右隅には、「三宅友信董浴拝写」と記されていますが、実際には渡辺崋山が描いたものになります。これは、釈奠(孔子を祀る典礼)の時に、この像が藩主をはじめ家中の礼拝する対象となるため、藩主の血筋を引く友信(1798〜1886)の名前を使用したと伝えられています。
この孔子像は、十人の孔子門下の十哲像とともに、田原藩成章館において春秋二回の釈奠の際に掲げられ、明治時代以降は、田原城本丸に建つ巴江神社に宝物として保管されていました。孔門十哲像には、文化13年(1816)から嘉永元年(1848)の年紀が記され、現存するものの一部は、この孔子像より早くに完成されています。この孔子像完成以前は、他の者の筆にかかる孔子像か、石碑を墨摺りした拓本のいずれかが存在したと思われ、この作品完成後も拓本の孔子像を使用していたとの古老の伝承もあります。孔門十哲は、孔子が重視したそれぞれの分野に通じている門人を言います。徳行は顔淵・閔損(びんそん)(子騫(しけん))・冉耕(ぜんこう)(伯牛(はくぎゅう))・冉雍(ぜんよう)(仲弓(ちゅうきゅう))、言語は宰予(さいよ)(子我(しが))・端木(たんぼく)(子貢(しこう))、政事は冉求(ぜんきゅう)(子有(しゆう))・季路(きろ)(子由(しゆう))、文学は言偃(げんえん)(子游(しゆう))・卜商(ぼくしょう)(子夏(しか))が挙げられています。
この孔子像は、昭和30年2月2日に他の遺品とともに、渡辺崋山関係資料の一部として重要文化財に指定され、孔門十哲像は昭和32年2月9日に追加指定、昭和53年3月24日には歴史資料に指定替えされました。 |
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馬図(絵馬) |
裏書によれば、片浜村の山田甚左衛門・同重五郎・同重左衛門・同六治郎・同安右衛門・同久右衛門・小林傳右衛門の7人が願主となり、片浜観音堂に奉納したものである。「天保十二載丑花月吉辰 所願成就」とあり、天保12年3月に崋山に依頼したものである。はやり立つ馬が2本の杭に繋がれ、後ろ足を蹴り上げようとする様を描く。あたかも崋山自身の心境を表しているようである。 |
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狂歌草稿 |
巻子仕立てで、田原藩士であった鏑木轍の長男、鏑木華国による添え書きがある。
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蔵王山麓熊野社
毎祭祀社頭献燈
題狂歌勝畫時
天保十二年辛丑夏
藩中青年請之先生
先生苦笑稍久即夜戯
口吟狂体百人一首
録以授之云惜哉
散佚不完僅存
四十六首耶
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蔵王山麓の熊野社
毎に祭祀の社頭に燈を献じ、
狂歌を題し畫を勝(かざ)る。時に
天保十二年辛丑夏
藩中の青年之を先生に請ふ。
先生苦笑し稍や久しくして即ち夜戯れに
狂体百人一首を口吟す。
以て録し之を授けて云ふ。惜しい哉、
散佚して、完からず。僅かに
四十六首を存するのみと。
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大正二年春三月
三州田原華国木知識 |
この狂歌が作られた時期は、「天保十二年辛丑夏」という崋山自刃の直前であることがわかる。 前書きの意味は次のようである。
「蔵王山麓の熊野社では、つねに祭祀の社頭に燈を献じて、狂歌を題し畫を勝(かざ)る。時に天保十二年辛丑夏、藩中の青年がこれを先生にお願いした。先生は苦笑し、稍や経ってからすぐさま夜戯れに狂歌体の百人一首を口で吟じだした。それを記録し、これを青年に与えて云った。惜しい哉、どこかに散逸してしまって、完全ではない。僅かに四十六首があるだけだ。」 |
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渡海願書 |
天保8年に代官羽倉外記が幕命による伊豆諸島巡検に参加したい旨、田原藩へ渡航の願い書を提出した。その際の下書きで、12月25日の日付がある。 |
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退役願書稿 |
天保10年4月、崋山は病気を理由に藩の年寄役を辞し、蘭学研究や絵画に専心したいと考えるようになり、16丁からなる退役願いを藩に提出した。内容は崋山の生い立ちから家庭状況、画業、学問の経過、藩政に対する見解などから成り、崋山の伝記を検討する際の基準となる底本となった。「立志」や「板橋の別れ」などのエピソードや「見よや春大地も亨す地虫さへ」という句もこの本の中に記載されている。
「画事も治道も一理にして二理はこれ無き間、画道を以て治道に試み申すべくとあらんに、随分試み申すべく候」
「志拙ければ画醜にして、心浅ければ画俗なり。醜俗を去らんと欲すれば、万巻の書を読むに如かず」
(『退役願書稿』(重要文化財)より)
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自筆画論 |
渡辺崋山が田原へ蟄居して後、江戸の椿椿山から画作について尋ねられた解答を手紙で送っている。この問答を2冊の冊子にまとめたものである。『画譚』には、椿山の堂号である「琢華堂蔵」と記し、「椿山山房」「全楽堂文庫」の2印が捺される。
椿山問 私固より風韻・気韻等はいささかも求めず、唯写生にて真物の性情を悟り、古画と査照いたし、其描くに臨で南田翁の位置と筆墨運用とを按排致し、心に出さんと欲する所を得申候、我画を観て世人品評致候者、真に逼とか或は俗套に落とか申べくを、却て風韻風趣ありと批判を受け候儀、全御教を恪守致し候儀、自致其場にも至り、自ら知らざること感歎にたえず候、去りながら近来手に圭角を生じ胸臆狭縊に相成、綵花泥禽の如き画に相成申すべく、戒慎鞭撻を加へ申候。
崋山答 足下写生にて其理其性情を悟り、数古人按排工夫に引合せて揮酒に臨は南田翁の格制に委順致し候者、遺憾なきに似たり、さりながらこれは能者の事にて至極の場には之なし、今足下四十に隣る、今五十に至る間両忘の境に至るべし、其の境に入らんとせし時、又論ずべし、然し助け益するなからん。今得る所を推て道に進み、自然の化を待べし、
足下の画を見て世人は写真とか俗韻とか申すべき処、却て風韻ありと申す由、左もあるべし、写生切近ならざるは数古人の助、俗韻なきは南田の格調なれば必ず凡庸には落ざる也、足下近来手に圭角を生ぜんと恐るよし、是は俗気纏繞して疑ひを生ずるならん、慎しむべし、胸臆の狭隘は良友なき故也、択ぶべし。
(『絵事御返事』(重要文化財)より)
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書簡 |
立原杏所(1785〜1840)は水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒の子として、水戸に生まれる。 名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称した。19歳で家督を継ぎ、小姓頭にすすんで禄二百五十石を給せられた。有能な藩士として徳川斉昭(烈公)の信任が篤かった。父翠軒について幼少から学を修めた。画は林十江に学んだのち谷文晁に師事した。渡辺崋山、椿椿山と親しく、崋山の入牢を椿山に知らせたものである。 |
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麹町一件日録 |
渡辺崋山が蛮社の獄で捕えられ、その救済活動の記録である。蛮社の獄の進行状況や情報、救済の方法など、几帳面な椿山らしく克明に記録されています。 |
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自筆墓表(不忠不孝渡辺登) |
「不忠不孝渡邉登」の左には「罪人石碑(ざいにんせきひ)相成(あいなら)ざるべし、よって因、自書」とあります。 |
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自決脇差 |
茎に刀名として「東播士祐國」、「明石隠士大野夕鴎令祐國作以贈華山先生 文政十三年八月日」とあり、嘉永年間に没した祐國の作であることがわかります。 |
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琢華堂門籍 |
文政7年(1824)から嘉永6年(1853)までに入門した学問・素読・居合・書画の373名の弟子の名が記される門人帳である。武家54%、町人23%、女性6%の割合で、寺社関係の9人も記載される。弘化2年(1845)以降はほとんど画塾となった。
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『琢華堂門籍』に掲載される椿山の代表的な弟子たち |
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渡辺如山(1816生) |
崋山の末弟、文政12年(1829)、14歳で入門。 |
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立原朴次郎 |
杏所の息子、天保11年(1840)入門。 |
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山本琴谷 |
崋山の弟子だった津和野藩士。天保11年(1840)入門。 |
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鈴木三岳 |
崋山の弟子だった吉田(豊橋)の町人。天保12年(1841)入門。 |
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斎藤 兄弟 |
崋山と親交のあった神道無念流師範弥九郎の四人の息子。弘化2年〜嘉永5年に相次ぎ入門。 |
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渡辺小華(1835生) |
崋山の二男。弘化4年(1847)、13歳で入門。 |
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三宅康保(1831生) |
後の12代田原藩主。 |
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野口幽谷(1827生) |
嘉永3年(1850)、24歳で入門。のちに琢華堂塾頭となる。 |
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