崋椿系の花鳥画
展示期間:平成16年7月8日(木) 〜 平成16年8月22日(日)
展示作品リスト
特別展示室
資料名
作者名
年代 備考

花卉鳥虫蔬果画冊(かきちょうちゅうそががさつ)

渡辺崋山(わたなべかざん) 天保4年(1833)  
 
花鳥帖十二図(かちょうちょうじゅうにず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
花禽十二帖(かきんじゅうにちょう) 渡辺小華(わたなべしょうか) 明治時代  
明清花鳥画扇面写(みんしんかちょうがせんめんうつし) 椿 椿山(つばきちんざん) 江戸時代後期  
画稿帖(がこうちょう) 椿 椿山 江戸時代後期  
黄雀窺蜘蛛図(おうじゃくしちちゅず)(複製) 渡辺崋山 天保11・12年(1840・1841)  
桃花文禽図(とうかぶんきんず) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
石竹図(せきちくず) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
倣徽宗花鳥之図(ほうきそうかちょうのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
墨梅図(ぼくばいず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
墨竹図(ぼくちくず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
黄雀覗蜘蛛図(おうじゃくしちちゅず) 渡辺小華 元治元年(1864)  
富貴図(ふうきず) 渡辺小華 明治14年(1881)  
牡丹之図(ぼたんのず) 渡辺如山(わたなべじょざん) 天保4年(1833)  
芍薬之図(しゃくやくのず) 渡辺如山 天保6年(1835)  
梅華長春図(ばいかちょうしゅんず) 渡辺如山 江戸時代後期  
花鳥図(かちょうず) 渡辺如山 天保2年(1831)  
蕪鼡之図(かぶねずみのず) 椿 椿山 江戸時代後期  
藕花香雨図(ぐうかこううず) 椿 椿山 弘化2年(1845)  
寒香図(かんこうず)
[歳寒三友図(さいかんさんゆうず)]
椿 椿山 嘉永3年(1850)  
扇面十図二曲本間一双屏風
(せんめんじゅうずにきょくほんけんいっそうびょうぶ)
渡辺小華 明治時代 個人蔵

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。



作家解説
渡辺崋山(わたなべ かざん)
 寛政5年(1793)生まれ、天保12年(1841)に歿す。
 三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄り役に至っている。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。

渡辺小華(わたなべ しょうか)
 天保6年(1835)生まれ、明治19年(1887)に歿す。
 小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

椿椿山(つばき ちんざん)
 享和元年(1801)生まれ、嘉永7年(1854)に歿す。
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。_南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
 温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

渡辺如山(わたなべ じょざん)
 文化13年(1816)生まれ、天保8年(1837)に歿す。
 如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。



作品解説
黄雀窺蜘蛛図(渡辺崋山)
 竹の枝にとまる雀が蜘蛛を見すえる様子を描いている。ピーンと張った堅い描線の雀と蜘蛛がつくり出す緊張感にみちた空間。しかしその背後にある、やわらかい筆法の、淡い赤に花ひらいた朝顔の清涼感が観る者を安堵させる。
 それぞれのモティーフの確かなデッサン力は日常の真摯な自然観照にもとづく写生力によっている。そしてその写生が本図の重要な芸術的要素であることはいうまでもない。しかし、のみならずそれらのモティーフを画面で構成することによって生じた緊張と安堵、この相反する二つの感情を不安定に呼応させてはいないだろうか。

芍薬之図(渡辺小華)
 落款には「法秋穀張氏之意 乙未嘉平 如山定固」とあり、天保6年12月に、張秋穀の画法にのっとり描いたものである。柔らかな芍薬の花、たらし込みによる葉々は完成度も高く、兄崋山、師椿山の教えを自分のものとしている。

藕花香雨図(椿椿山)
 「藕花」とは蓮の花を指す。椿山は作画活動の全期をつうじて、蓮の絵を描いている。蓮は子孫繁栄、恋、結婚にまつわる幸福と、仏教のシンボルとしてイメージされてきたことから、当時の人々の需要が多かったことであろう。
 雨に煙る水面を蓮の茎がゆらゆらと伸びる様は、まさに浄土への導きをイメージする。盛りを過ぎた葉の端は弱々しく枯れ、若葉は張りのあるみずみずしさを湛える。水面に見える水草も、蓮の茎に絡む葦も計算された構図である。縦長の画面が蓮の花の香り漂う幻想的な情景を、いっそう引き立たせる。弘化年間(1844〜48)から、椿山の作風はより柔らかな方向へと向かう。それは、絵の具に水を含ませる方法の変化によるもので、この作品はその過渡期にあたる。椿山の描く蓮図の代表作に挙げられる。


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