渡辺崋山のあこがれ〜文人画の先達、故事を描く
展示期間 平成16年5月20日(木) 〜 平成16年7月4日(日)
展示作品リスト
特別展示室
指定
作品名
作者名
年代 備考
  画冊(がさつ) 谷 文晁(たにぶんちょう) 寛政3年(1791) 個人蔵
  墨蘭図画冊(ぼくらんずがさつ) 渡辺 崋山(わたなべかざん) 江戸時代後期 個人蔵
  達磨大師之像(だるまだいしのぞう) 渡辺 崋山 江戸時代後期 個人蔵
  琢華堂画譜(たっかどうがふ) 椿 椿山(つばきちんざん) 天保14年(1843) 全10冊のうち5冊
  花鳥屏風(かちょうびょうぶ) 沈 南蘋 (しんなんぴん) 江戸 時代中期  
  七言四絶「書懐」(しちごんしぜつ「しょかい」) 祇園南海(ぎおんなんかい)    
重美 山水図(さんすいず) 岡田半江(おかだはんこう) 享和3年(1803) 個人蔵
  寿老人之図(じゅろうじんのず) 柳沢淇園(やなぎさわきえん) 江戸 時代中期  
  楼閣山水図(ろうかくさんすいず) 加藤文麗 (かとうぶんれい) 江戸 時代後期  
  西王母図(複製)(せいおうぼず) 渡辺崋山 文化13年(1816) 原本常葉美術館蔵
  宋周元公濂溪先生像
(そうしゅうげんこうれんけいせんせいぞう)
渡辺崋山 文政3年(1820) 個人蔵
  白衣大士并写経
(びゃくえだいしならびにしゃきょう)
渡辺崋山 文政5年(1822)  
  達磨立像図(だるまりゅうぞうず) 渡辺崋山 天保元年(1830)  
  林和靖養鶴之図(りんなせいようかくのず) 渡辺崋山 天保6年(1835)  
  布袋図(ほていず) 渡辺崋山 天保年間  
  韓信忍耐之図(かんしんにんたいのず) 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  漁夫図(ぎょふず) 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
重文 于公高門図(複製)(うこうこうもんず) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本個人蔵
重美 黄粱一炊図(複製)(こうりょういっすいず) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本個人蔵
         
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。


展示の見どころと作品解説
画冊 谷文晁
 寛政時代初期(1789〜)に見られる鼻筋に白いハイライトをあてた人物表現が特徴的です。衣線の固い表現に渡辺玄対や北山寒巌らの影響を感じさせます。人物画と風景画を交互に描いていますが、いずれも原本の存在があると思われます。

琢華堂画譜 椿椿山
 虫、鳥、草花、果実にいたるまで多種多様なものを画材にしています。どちらかといえば、写意的な表現で味のあるばかりですが、特に注目したいのは色づかいです。微妙な色による質感の表現は微妙です。印章は椿山自身が押したものではなく、後押しと思われます。

山水図 岡田半江
 この作品は、父の米山人の個性的な作品と対象的に落ち着いた繊細な作品です。いまだ、半江の画風が確立していない時期の作品で、米山人の影響からか、躍動感を感じさせる仕上がりとなっていますが、どことなく湿潤な空気を見る者に感じさせ、半江最盛期の画風の兆しが見られます。賛は父の米山人が書いています。

西王母図(複製) 渡辺崋山
 西王母は中国で古くから信仰されていた仏女で、漢の武帝が長寿を望んだところ、天上から降りて仏桃を与えたと伝えられています。本図では、桃の実を持つ侍女と共に白雲上に姿を現したところを描いています。西王母には金の彩色も施されています。

黄粱一炊図(複製) 渡辺崋山
 この作品は、中国唐の時代、盧生という青年が志を抱いて、邯鄲まで旅をして来て、道者呂公に出会い、呂公から借りた枕で眠ります。すると、夢で、官吏試験に合格し、立身出世し、宰相となって子孫は繁栄し、八十歳になったところで目が醒めます。これは、この夢は黄粱の煮える間の一瞬の間のはかない夢であったという「盧生の夢」という中国の故事を描いています。崋山は死を決意してこの作品を描き、自らの人生を作品に投影しているようです。庵や人物の配置構成は、明の人朱端の原画からの摸成作品と思われますが、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ馬が繋がれている樹木には、崋山独特の切り裂くような緊張感が見られ、自刃を前にした荒涼感で、よりうらぶれた寒村の雰囲気と崋山自信の殺気を感じさせます。この作品は絶筆といわれ、崋山が自らの一生を振り返り、この黄粱一炊の図の夢のようであったと考えていたのでばないでしょうか。
 

展示の見どころと作品解説
谷 文晁(たにぶんちょう)  宝暦8年(1758)〜天保11年(1840)
 文晁は漢詩人として名高い谷麓谷の長男として江戸に生まれました。父は徳川御三卿の田安家の家臣でもあり、文晁は12歳の頃より狩野派、17歳からは中国北宗画・南宗画を学び、26歳で田安家へ出仕し、30歳で後に寛政の改革を行う松平定信付になり、生涯の大半を定信の御用絵師として過ごします。文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。40歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。江戸画壇の大御所として多くの画人に影響を与えています。

渡辺崋山 (わたなべかざん)  寛政5年(1793) 〜 天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

椿 椿山 (つばきちんざん)  享和元年(1801) 〜 安政元年(1854)
 椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。

沈 南蘋(しんなんぴん) 生没年不詳
 清代の画家で、名は詮、字は衡之と言います。浙江呉興出身です。写実的で色彩あざやかな花鳥画を描き、享保16年(1731)12月に長崎に渡来して同18年9月まで約2年在住し、熊斐らが師事し、日本の花鳥画に大きな影響を与えました。谷文晁や渡辺崋山らも沈南蘋の作品を多く模写しています。

祇園南海(ぎおんなんかい)  延宝4年(1676)〜宝暦元年(1751)
 和歌山藩の医師の子として江戸に生まれました。元禄2年(1689)木下順庵に入門。同10年に和歌山藩の儒者に任ぜられ、和歌山へ行くが、同13年に城下を追放されます。宝永7年(1710)赦されて城下に戻ります。正徳元年(1711)に同門の新井白石の推挙で朝鮮聘使の接待に公儀筆談を勤め、同3年藩校湊講館が創設されると主長に任ぜられました。漢詩人としても著名ですが、文人画の先駆者としても知られています。

岡田半江(おかだはんこう)  天明2年(1782)〜弘化3年(1846)
 名は粛。字は子羽。別号は寒山等。大坂の人で、幼時より父米山人に画を学び、父と同じく藤堂家に仕えました。長じて頼山陽、田能村竹田らと親交を結びました。柔らかな描線で、温和で潤いのある画風を生み出しています。

柳沢淇園(やなぎさわきえん)  宝永元年(1704)〜宝暦8年(1758)
 父柳沢保格は柳沢吉保の家老で、同姓と名の一字を許されました。淇園は二男でりゅうりきょう柳里恭の名で知られます。幼い時から花鳥画を長崎派の英元章に学び、書・儒学・篆刻・香道・音曲・医薬・唐話・仏教にも通じていました。文人画の先駆者の一人で、池大雅とも交流しました。享保9年(1724)主家に従い、甲府より大和郡山に移り、兄の養子となり、大寄合に進みました。

加藤文麗(かとうぶんれい)  宝永3年(1706)〜天明2年(1782)
 伊予国(愛媛県)大洲藩主加藤泰恒の六男として生まれました。大叔父泰茂の養子となり、幕臣として従五位下伊予守に叙せられました。狩野周信に画を学びました。渡辺崋山が9歳までついた画の師である平山文鏡、後についた谷文晁の二人は文麗門下の相弟子でした。
 
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