谷 文晁(たにぶんちょう) 宝暦8年(1758)~天保11年(1840) |
文晁は漢詩人として名高い谷麓谷の長男として江戸に生まれました。父は徳川御三卿の田安家の家臣でもあり、文晁は12歳の頃より狩野派、17歳からは中国北宗画・南宗画を学び、26歳で田安家へ出仕し、30歳で後に寛政の改革を行う松平定信付になり、生涯の大半を定信の御用絵師として過ごします。文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。40歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。江戸画壇の大御所として多くの画人に影響を与えています。 |
|
渡辺崋山 (わたなべかざん) 寛政5年(1793) ~ 天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。 |
|
椿 椿山 (つばきちんざん) 享和元年(1801) ~ 安政元年(1854) |
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。 |
|
沈 南蘋(しんなんぴん) 生没年不詳 |
清代の画家で、名は詮、字は衡之と言います。浙江呉興出身です。写実的で色彩あざやかな花鳥画を描き、享保16年(1731)12月に長崎に渡来して同18年9月まで約2年在住し、熊斐らが師事し、日本の花鳥画に大きな影響を与えました。谷文晁や渡辺崋山らも沈南蘋の作品を多く模写しています。 |
|
祇園南海(ぎおんなんかい) 延宝4年(1676)~宝暦元年(1751) |
和歌山藩の医師の子として江戸に生まれました。元禄2年(1689)木下順庵に入門。同10年に和歌山藩の儒者に任ぜられ、和歌山へ行くが、同13年に城下を追放されます。宝永7年(1710)赦されて城下に戻ります。正徳元年(1711)に同門の新井白石の推挙で朝鮮聘使の接待に公儀筆談を勤め、同3年藩校湊講館が創設されると主長に任ぜられました。漢詩人としても著名ですが、文人画の先駆者としても知られています。 |
|
岡田半江(おかだはんこう) 天明2年(1782)~弘化3年(1846) |
名は粛。字は子羽。別号は寒山等。大坂の人で、幼時より父米山人に画を学び、父と同じく藤堂家に仕えました。長じて頼山陽、田能村竹田らと親交を結びました。柔らかな描線で、温和で潤いのある画風を生み出しています。 |
|
柳沢淇園(やなぎさわきえん) 宝永元年(1704)~宝暦8年(1758) |
父柳沢保格は柳沢吉保の家老で、同姓と名の一字を許されました。淇園は二男でりゅうりきょう柳里恭の名で知られます。幼い時から花鳥画を長崎派の英元章に学び、書・儒学・篆刻・香道・音曲・医薬・唐話・仏教にも通じていました。文人画の先駆者の一人で、池大雅とも交流しました。享保9年(1724)主家に従い、甲府より大和郡山に移り、兄の養子となり、大寄合に進みました。 |
|
加藤文麗(かとうぶんれい) 宝永3年(1706)~天明2年(1782) |
伊予国(愛媛県)大洲藩主加藤泰恒の六男として生まれました。大叔父泰茂の養子となり、幕臣として従五位下伊予守に叙せられました。狩野周信に画を学びました。渡辺崋山が9歳までついた画の師である平山文鏡、後についた谷文晁の二人は文麗門下の相弟子でした。 |
|