鈴木充氏は明治41年(1908)に、現在の田原市赤羽根町に生まれました。旧制成章中学(現在の愛知県立成章高等学校)を経て、ハルビン学院を卒業しました。豊橋の参陽新報を経て、昭和8年(1933)に名古屋新聞社(中部日本新聞社の前身)に入り、中日新聞編集局長・同専務取締役・代表取締役副社長などを歴任します。昭和41年以降は東海テレビ放送株式会社の取締役を務め、代表取締役副社長を経て、昭和46年に代表取締役社長、同62年に会長、平成9年から相談役。東海テレビ福祉文化事業団理事長も長年務めました。昭和32年に、旧ソ連・中国・北朝鮮の視察記録を中日新聞に連載した「共産圏雑感」で、ボーン賞を受賞しました。昭和55年には勲二等旭日重光賞を受章。
加藤舜陶 |
1916年生まれ。先々代春逸が、赤津窯系譜7世景清より分家。1946年10代継承。日展特選北斗賞・内閣総理大臣賞・委嘱・会員審査員・評議員。全国陶芸展文部大臣賞・銀盃工芸賞。光風会翡翠賞・評議員。日新工連評議・理事。朝日陶芸展、中日国際陶芸展審査員ほか歴任。またブラッセル万博金賞、瀬戸市功労章、愛知県文化功労賞等。ロシア(旧ソ連)美術館、メトロポリタン美術館等に永久保存。龍窯に拠る。主に黄灰釉、灰釉など。勲四等瑞宝章。 |
加藤鈔 |
・・・1927年生まれ。瀬戸赤津焼の伝統窯元に生れる。東京工業大専門部窯業科卒。1961年日展初入選、以降日展特選北斗賞・審査員・会員・評議員。日本新工芸家連盟展審査員・委員。光風会展辻永記念賞・審査員・評議員。朝日陶芸展通産大臣賞・審査員・評議員。愛知県芸術選奨文化賞ほか受賞。蒼釉、白釉刻文、釉彩中心。 |
加藤卓男 |
・・・1917年生まれ。父加藤幸兵衛。多治見市に生れる。多治見工校卒。1960年フィンランド工芸美術学校に留学。72年イラン留学、76年東大イラン・イラク遺跡発掘調査団に参加。古代ペルシャ陶芸研究の功績で東海テレビ文化賞。美濃陶芸の指導育成などで中日文化賞。日展特選北斗賞・評議員・審査員。日現工展現代工芸賞・審査員。朝日陶芸展陶芸賞・審査員。美濃陶芸協会会長、日新工連理事ほか歴任。82年ラスター彩名陶展に出品。美濃伝統技、ラスター彩、青釉など。日本橋高島屋ほか個展。95年三彩で重要無形文化財。現在、日本工芸会正会員。 |
亀井勝 |
・・・1933年生まれ。愛知県出身。日展特選・無監査・依嘱・審査員・評議員。中日賞。光風会評議・審査員。現代工芸評議・審査員。中日国際陶芸展評議・審査員・招待。個展多数。 |
若尾利貞 |
・・・1933年生まれ。岐阜県出身。ニュークラフト展、岐阜県綜合デザイン展、朝日陶芸展、日本伝統工芸展など受賞。日本陶芸展、中日国際陶芸展ほか入選。日本陶芸展海外選抜展、スミソニアン博物館(ワシントン)出品。ヴィクトリア&アルバートミュージアム(ロンドン)、国際交流基金収蔵。美濃新人賞、加藤幸兵衛賞、日本陶磁協会賞、岐阜新聞大賞ほか受賞。日本工芸会正会員。多治見市無形文化財保持者(志野)。ストックホルムNKデパート、名古屋松坂屋・名鉄、広島・福山天満屋、博多大丸、金沢・新潟大和、山形大沼・鶴屋、岐阜近鉄、東京・大阪・京都・岐阜・米子・大宮高島屋、東京壺々現・寛土里・高輪会・京王ほか個展。於奈田工房創設。現代感覚の造形、意匠による斬新な志野、鼠志野を発表。 |
木下孝則(1894〜1973) |
大正〜昭和時代の洋画家。明治27年2月24日生まれ。木下義謙の兄。佐伯祐三らとまじわり、油絵をはじめる。大正10年フランスに留学し、帰国後、樗牛賞、二科賞。一水会創立に参加。写実的な女性像を得意とし、戦後の一連のバレリーナの作品で知られた。昭和48年3月29日死去。79歳。東京出身。東京帝大中退。 |
三岸節子(1905〜1999) |
大正〜平成時代の洋画家。明治38年1月3日生まれ。三岸好太郎の妻。春陽会展、独立美術協会展に出品ののち、昭和14年新制作派協会会員となる。21年女流画家協会を創立。26年「梔子」で芸術選奨。43年長男の画家黄太郎一家と南フランスに居住。平成6年文化功労者。情熱的な色彩、重厚な絵肌の力強い画風を展開。平成11年4月18日死去。94歳。愛知県出身。女子美術学校(現女子美大)卒。旧姓は吉田。 |
稗田一穂(1920〜) |
昭和〜平成時代の日本画家。大正9年8月23日生まれ。山本丘人に師事。創造美術、新制作協会、創画会を中心に活躍。昭和47〜63年母校東京芸大の教授。63年MOA美術館岡田茂吉賞大賞。幻想性と詩情性をあわせもつ作品を発表している。平成3年「月影の道」で芸術院恩賜賞。和歌山県出身。作品に「霧と渡る蝶」など。 |
荒谷直之助(1902〜1994) |
大正〜平成時代の洋画家。明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会、日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員、参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 |
山本彪一(1915〜1999) |
日展会友、光風会員。M氏・O氏賞を受賞し、師は猪熊弦一郎、早稲田大学卒、バラをテーマにした作品が多い。栃木県出身。、平成11年、86歳で死去。 |
飯田史朗(1934〜) |
1934年 名古屋市に生まれ、52年 日展初入選をし、61年 白士会結成会員となる。65年 公募白士会展になり審査員となる。81年
名古屋市芸術奨励賞、96年 愛知県芸術文化選奨文化賞を受賞し現在、白士会委員を務めている。 |
我妻碧宇(1904〜1993) |
昭和時代の日本画家。明治37年3月24日生まれ。大正11年上京して中村岳陵に師事。昭和4年院展で「午後の陽射」が初入選。11年名古屋に移る。21年の日展第1回展から毎回入選し、26年「秋」で特選、朝倉賞、白寿賞。36年岳陵門と日展をはなれ白士会を結成した。昭和45年10月28日死去。66歳。山形県出身。日本美術学校卒。本名は栄之助。 |
嶋谷自然(1904〜1993) |
昭和〜平成時代の日本画家。明治37年3月19日生まれ。矢沢弦月にまなび、昭和4年帝展で「網小屋」が初入選。15年西山翠嶂に入門。日展で25年「湖心」が文部大臣賞。日展審査員。45年名古屋芸大教授。平成5年8月13日死去。89歳。三重県出身。本名は藤四郎。 |
西村昭二郎(1927〜1999) |
1927(昭和2)年、京都府生まれ。1949(昭和24)年、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業。同年、第2回創造美術展初入選。その後、創画会などで活躍。花鳥画を得意としたが、伝統の技法に独自の構成方法や力強さを加え、現代の日本画を表現。1960(昭和35)年から約40年、八幡に在住した。 |
片岡球子(1905〜) |
昭和〜平成時代の日本画家。明治38年1月5日生まれ。吉村忠夫、安田靫彦らに師事。昭和5年院展で「枇杷」が初入選、27年日本美術院同人となる。母校女子美大の教授。歴史上の人物を主題にした「面構シリーズ」を迫力のある表現で連作し、50年「面構―鳥文斎栄之」で芸術院恩賜賞。57年芸術院会員。平成元年文化勲章。北海道出身。 |
小寺健吉(1877〜1977) |
大正〜昭和時代の洋画家。明治20年1月8日生まれ。大正2年文展出品の「秋近く」が初入選。13年光風会会員。昭和3年「南欧のある日」で帝展特選。風景画が多く、戦後も日展、光風会展に出品した。昭和52年9月20日死去。90歳。岐阜県出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。 |
朱乃正(1935〜) |
朱乃正は、1935年浙江省の海鹽県に生まれた。59年、中央美術学院油絵学部を卒業したが、学生時代に右派のレッテルを貼られ、卒業後は北京から遠く離れた青海省文化芸術界聯合会に配属された。80年、中央美術学院に呼び戻されて教鞭をとるようになり、いまは油絵学部の教授を務める。一時期は副院長も担当した。21年間に及ぶ都市の喧騒から離れた青海チベット高原での生活は、彼に、自然美に対する他の人にはないすぐれた感覚を与えた。彼はどこにでもある高原風情の中に美を見つけ、そこから美を掘り出し、中国と西洋の芸術のよさを融合させ、すばらしい作品に仕上げてしまう。そして、彼独特の中国的な写実油絵風格を形作った。彼は人間の精神的本質を芸術の核として描き出し、どの作品にも深い精神的含みのようなものを表現している。 |
小川博史(1913〜) |
日展参与であり審査員6回、文部大臣賞、菊華賞特別賞を受賞し、光風会名誉会員、 辻永記念賞なども受賞した。大正2年名古屋生まれ。師は鬼頭鍋三郎など。 |
小山 硬(1934〜) |
熊本県宇土市に生まれ。1961年 に東京芸術大学日本画科を卒業し、前田青邨に師事。第46回院展に初入選する。1977年
文化庁の海外派遣研修員で
欧州に留学し、1986年日本美術院評議員に推挙される。1988年 現代 日本画の俊英「小山硬展」開催し、第73回院展内閣総理大臣賞受賞する。
現在、日本美術院同人、愛知県立芸術大学教授を務める。 |
西尾善積(1912〜1995) |
藤島武二、川島理一郎に師事する。1938年新文展初入選し、以後新文展、日展、光風会に出品する。46年光風会会員になり、47年日展特選。のち日展参事となる。95年東京で死去。 |
田村孝之介(1903〜1986) |
昭和時代の洋画家。明治36年9月8日生まれ。小出楢重らにまなぶ。昭和2年二科会展に「裸婦立像」「風景」で初入選。22年二紀会創立に参加し、のち理事長。
60年文化功労者。新聞小説の挿絵もおおい。昭和61年6月30日死去。82歳。
大阪出身。本名は大西孝之助。作品に「女三態」など。 |
矢橋六助(1905〜1988) |
昭和時代の洋画家。明治38年11月16日生まれ。国画会会友、自由美術家協会会員をへて、昭和25年モダンアート協会の創立に参加。44年岐阜県教育委員長となる。新幹線名古屋駅や岐阜県庁内のモザイク壁画も制作。昭和63年7月4日
死去。82歳。岐阜県出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。 |
萩谷巌(1891〜1979) |
サロン・ドートンヌ会員・審査員を務めた。師は黒田清輝で、静物をテーマとした作品が多い。昭和54年88歳で死去。 |