福田半香 興到筆随帖 天保13年(1842) |
この書と画が五枚ずつ描かれた画帖は山水画を福田半香、漢詩の書を萩原秋巌(はぎわらしゅうがん・1803〜1877)の作品である。秋巌は江戸時代後期の書家で、宋の徽宗皇帝の痩金書を好んだ。半香は崋山の門下生であった。天保4年(1833)に崋山と出会っている。そして翌年、江戸へ行き、崋山門の扉を叩いた。崋山に入門した後、椿椿山(1801〜1854)の花鳥画のすばらしさに目を見張り、自分は山水画に専念しようと決意をした。その中で半香は崋山を救うために開いた絵画会で逆に崋山を苦しめる事となってしまった。
崋山は天保12年(1841)、自害した。半香は失意のなか、自分を責めながらも、崋山や倪元 、費漢源など明清画人の作品から基本を学んだ。この画帖は、崋山自害の翌年、天保13年(1842)1月に描かれている。悲しみの後の静かな透明感に満ちた気持ちからか、柔らかで優しく、またおおらかさも感じさせる作品である。
この画帖は半香の門人、小栗松靄(おぐりしょうあい・1814〜1894)のために描かれたものである。松靄の一家は文墨の士が多く、多くの文人墨客が旅の途次に小栗家を訪ねており、遠州で松靄を訪れずに過ぎることはなかったと言われている。この桃源郷の風景を描いたと思われる画帖を眺めながら、半香も十才年下の松靄と楽しく心温まるひとときを過ごしたのではないだろうか。 |
渡辺崋山 重要美術品 牡丹図 天保12年(1841) |
蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日々を送る身となった。崋山の画弟子福田半香(1804〜64)らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうと考えた。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保12年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、後に「腹切り牡丹」と称されたものである。
陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として評価される崋山であるが、この図は、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す没骨法で描かれており、東洋画の技法もよく研究している様子が窺われる。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富に受容できるのは、武士の教養としての儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 脂を著し、聊以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところか。残念ながら、崋山が描いた当時の色はあせてしまっているが、当時の評判が色鮮やかな牡丹を見る者に想像させる。 |
椿椿山 福田半香肖像画稿 田原市指定文化財 嘉永4年(1851) |
嘉永4年、半香48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。画稿であるゆえ、荒っぽさは否めないが、幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。この作品でも多聞にもれず、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。
「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)
しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。
画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は「山水の半香、花鳥の椿山」と崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。
蛮社の獄、崋山蟄居中にその救済活動の中心的人物であった意志の人、半香の人柄を知る貴重な作品である。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。
崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。 |
平井顕斎 福田半香 山水図屏風 弘化2・3年(1845・46) |
半香と顕斎は、崋山のもとで一緒に学んだ仲である。その二人が技法を凝らし色彩を楽しんで描いた屏風である。
半香の鍾山図は南京城外の紫金山とも崑崙山とも考えられる。高山の麓に雲煙がたちこめ流れている。その中に高閣楼が姿をみせ、神秘的な雰囲気を醸し出している。
顕斎の嵩岳は潤いのある墨で豊かに描かれている。山水画を最も得意とした顕斎の技がさえる作品ではなかろうか。嵩岳は五岳の中岳、河南省登封県の北にある名山である。
顕斎の燕磯は燕子磯ともいい、江蘇省江寧県北の観音山にある。山上に石があり、其の形が飛燕のようであるからこの名がついた。観光地であるのか、崖の上の平地に柵が施してある。
半香の蛾眉積雪の蛾眉山とは、中国四川省にある古来より普賢菩薩示現の霊場とされている山である。北宋の頃から山中に寺院の建立が行われた地である。その修験者の道場である山の険しさ、雪深さに画をみた人は厳かな心持ちがするであろう。 |
渡辺崋山 (わたなべかざん) 寛政5年(1793) 〜 天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。 |
椿 椿山 (つばきちんざん) 享和元年(1801) 〜 安政元年(1854) |
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。 |
福田半香 (ふくだはんこう) 文化元年(1804) 〜 元治元年(1864) |
遠州磐田郡見附(磐田市)の出身で、最初、掛川藩の御抱え絵師村松以弘につきましたが、江戸に出て崋山に師事し、椿椿山と双壁となり、山水画を得意としました。天保11年には幽居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこしました。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃してしまいました。半香は自責し自らの死後、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬り、墓標を建てないことを遺言しています。 |
奥原晴湖 (おくはらせいこ) 天保8年(1837) 〜 大正2年(1913) |
下総国古河(茨城県古河市)に古河藩士池田政明の四女として生まれ、絵は古河藩士で谷文晁に学んだ枚田水石に学びます。幼い頃から漢詩・書・蘭学も修めました。画家を目指した晴湖は父方の叔母の一族、関宿領を治める奥原家の養女となり、元治2年(1865)に江戸に出ます。首都となった東京で文人墨客と交遊し、衰退する南画界の中で、南画家としてその地位を確立し、画塾を開き活躍しました。明治24年(1891)、熊谷市郊外の上川上村に隠棲し、自らの画道追求の日々を過ごします。谷文晁・渡辺崋山・椿椿山・福田半香といった文晁・崋椿系の画家の作品を多く摸写しています。 |