渡辺崋山と椿椿山・椿華谷
展示期間平成15年12月10日(水)~平成16年2月8日(日)
展示作品リスト
特別展示室
作者名 指定区分 作品名 制作年
椿椿山   過眼録二十三 天保7年(1836)
椿椿山   過眼録二十九 天保11年(1840)
椿椿山   過眼掌記四十八 嘉永2~3年(1849~50)
椿椿山   過眼掌記五十 嘉永4年(1851)
椿椿山   漫遊畫稿 江戸時代後期
渡辺崋山   崋山俳画譜(版画) 大正15年(1926)
渡辺崋山 重文 自筆遺書(椿椿山宛) 天保12年(1841)
椿椿山   琢華堂椿山先生画帖 江戸時代後期
渡辺崋山   耕織図 天保年間
       
渡辺崋山 国宝 鷹見泉石像(複製) 天保8年(1837) 原本は東京国立博物館蔵
渡辺崋山 市文 秋山瀑布図 文政5年(1822)
渡辺崋山   翠渓亭路之図 文政年間
渡辺崋山   草稿東海道吉田宿 天保4年(1833)
渡辺崋山   三河畠村沖螺捕図 天保4年(1833)
渡辺崋山   神島渡海之図 天保4年(1833)
椿椿山 重文 小集図録及び書簡 天保11年(1840)
椿椿山   老女之像 江戸時代後期
椿椿山   遊鯉之図 天保14年(1843)
椿椿山   歳寒三友図 安政元年(1854)
椿椿山   秋塘独鴨図 江戸時代後期 個人蔵
椿椿山   高冠図 嘉永2年(1849)個人蔵
椿椿山   鯉魚之図 江戸時代後期個人蔵
椿椿山   五穀豊穣之図 嘉永6年(1853)
椿華谷   五穀豊穣之図 天保12年(1841)
椿華谷   花卉図 弘化3年(1846)
椿華谷   花鳥図 江戸時代後期
椿華谷   四愛図 弘化3年(1846)個人蔵

展示作品リスト
渡辺崋山[わたなべかざん]
寛政5年(1793)生まれ、天保12年(1841)に歿す。
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄り役に至っている。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井躇斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
椿椿山[つばきちんざん]
享和元年(1801)生まれ、天保12年(1841)に歿す。
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760~1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。?南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救済に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827~98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
椿華谷[つばきかこく]
文政8年(1825)生まれ、嘉永3年(1850)に歿す。
椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811~93)の日光祭礼奉行に随行したりして一人だちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であったが、崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。

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