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牡丹図
ぼたんず |
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渡辺崋山/天保12年(1841) |
蛮謝の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日々を送る身となった。崋山の画弟子福田半香(1804〜64)らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうと考えた。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保12年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、後に「腹切り牡丹」と称されたものである。
陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として評価される崋山であるが、この図は、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す没骨法で描かれており、東洋画の技法もよく研究している様子が窺われる。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富に受容できるのは、武士の教養としての儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 脂を著し、聊か以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々とした紅色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところか。残念ながら、崋山が描いた当時の色はあせてしまっているが、当時の評判が色鮮やかな牡丹を見る者に想像させる。 |
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員数:一幅
材質彩色:紙本着色
法量(cm):123.5×47.5
平成3年購入 |
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