文化財紹介

●萩薄飛禽鏡(はぎすすきひきんきょう)
 萩薄飛禽鏡は、正徳5(1715)年に亀山村の青木与左衛門が石堂山に石を取りに行き掘り当てたものを、享保11(1726)年に豊島神社(弁財妙音天女宝殿)に奉納したものである。
  鏡は、鏡背上部の中心に萩が据えられ、内区から外区上面にかけてススキが対照的に振り分けられている。さらに内区には、大きく羽ばたき飛翔する鳥が配され、下部には三株のススキの葉を巧みに交叉させることで、鏡背の模様をみごとに構成している。鈕は、径1センチメートルの截頭円錘鈕、鈕座は菊座で径2.4センチメートル、内区と外区を分ける界圏は単圏で低く、面径は10.9センチメートルである。
  従来、この鏡は「蘆荻飛禽鏡(ろてきひきんきょう)」と呼ばれていたが、鏡面にある植物が萩と薄(ススキ)であるため「萩薄飛禽鏡」と名称を変更した。飛禽の構図が側面に描かれている点が特に注目される。また、この鏡の菊座截頭鈕は、豊橋市普門寺経塚出土の久寿3(1156)年在銘経筒に伴って出土したとされる「瑞花鴛鴦鏡(ずいかえんおうきょう)」にも見られ、本鏡が平安時代後期(12世紀中ごろ)に制作されたものであることを物語っており、県内に残された当時の鏡としても優品である。
  なお、鏡の出土地石堂山には、経塚が築かれ、この鏡がその経塚に関連する遺物である可能性が高い。


閉じる

●宝海天神社瓦経
 宝海天神社は、誉田別命(ほんだわけのみこと)・細美御前・菅原道真を祭神とする村社である。保美町地区には、もともと八幡社があり、その八幡社を上の宮、宝海天神社を下の宮と呼んでいたが、大正2(1913)年に合祀されて、現在に至る。その八幡社の宝物とされていたのが、この瓦経である。
  瓦経は、旧八幡社付近から出土したと伝えられているが、詳細な出土の様子については不明である。
  二片からなる瓦経には、それぞれ「尊勝陀羅尼経」「摩可般若波羅密多心経」が表・裏面に刻まれている。また「尊勝陀羅尼経」の側面には「書写奉僧聖賢」とあり、この瓦経が僧聖賢によって書写されたものであることがわかる。聖賢の名は、承安4(1174)年の伊勢の国小町塚経塚出土の瓦経、同年の菩提山出土の瓦経にもあり、伊良胡御厨にあったとされる万覚寺の僧とは断言できないものの、渥美と深い関わりがあり、かつ奈良東大寺とも関わりのあった高僧と考えられる。
  なお、当市から出土した瓦経には、他に伊良湖東大寺瓦窯跡から出土した「法華経巻第二」と「大日経巻第四」が刻まれたものがある。


閉じる

● 伊良湖東大寺瓦窯跡
昭和43(1968)年に完成した豊川用水初立池(ダム)南側の斜面に存在する。この窯跡は、奈良東大寺の鎌倉期の再興にあたり、その瓦を焼成したところである。
  治承4(1180)年、焼失した東大寺は、俊乗房重源上人らの活躍により建久6(1195)年には大仏殿が、その後もいくつかの建物が復興された。そしてこの大仏殿等再建に関わる瓦が、岡山県瀬戸町(現伊方町)にある万富東大寺瓦窯(跡は国指定史跡)と伊良湖東大寺瓦窯で焼かれたのである。
  窯は、昭和41年に発掘調査された。初立池(ダム)堤防の南隅、標高11〜12メートル前後の傾斜地に三基の窖窯が築かれていた。窯体の全長は11.3〜11.5メートル、幅(最大幅)は2.5メートルほどで、渥美古窯の中期段階の窯に特徴的な分焔柱を伴う船底型の構造を持っている。
  出土遺物には、「東大寺大佛殿瓦」「大佛殿」「東」の刻印のある軒丸瓦、軒平瓦、平瓦(いずれも町指定有形文化財)がある。その他に瓦経片、瓦塔片、山茶碗、小皿、鉢、陶錘などが少量出土している。


閉じる

●伊良湖東大寺瓦窯跡出土瓦
伊良湖東大寺瓦窯跡出土の瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・平瓦(いずれも破片)がある。そのうちの軒丸・軒平瓦には「東大寺大佛殿瓦」、平瓦には「東」「大佛殿」と刻まれたものがある。
  瓦は、東大寺鎌倉再建にあたって大勧進職となった俊乗房重源上人が伊勢の高級禰宜や僧侶たちとの親交を通して、当時盛んに焼き物が焼かれていた「渥美古窯」の中でも、伊勢神宮の神官領「伊良胡御厨」が置かれていた伊良湖の窯に特注品として注文があったと考えられている。
  伊良湖で焼かれた瓦は、昭和43(1968)年、東大寺「鐘楼」屋根葺替え工事の際に平瓦が初めて発見され、その後の平成になって大仏殿の周辺の発掘調査により、軒丸瓦・軒平瓦片が出土した。
なお、同時代に瓦を供給した岡山県「万富東大寺瓦窯」で焼成された瓦の軒丸瓦・軒平瓦には、「東大寺(梵字)大佛殿」と刻まれ、明らかに伊良湖で焼かれた瓦とは異なっている。


閉じる

●泉福寺の文化財 中世墳墓
 中世墳墓は、天台宗の古刹泉福寺背後の山地から南に延びた舌状台地に位置し、標高150〜160メートル、南北100メートル弱、東西30メートルにわたり分布している。遺構は、台地の鞍部周辺に密集度が高くなっているが、東側に上下二段、西側にも上中下三段の狭い平地が造成され、そこにも複数以上の遺構が存在していることが確認されている。
  遺跡は、その後の遺跡整備を目的として平成14年7月から10月にかけて発掘調査された。調査の結果、遺跡全体が盗掘による激しい撹乱を受けていたため、正確な中世墳墓の数の把握には至らなかったが、約90基程度の中世墳墓が存在していたと考えられる。遺跡の造営時期については、出土した骨蔵器の年代などから概ね鎌倉時代から室町時代にかけてと推定される。
  出土遺物には、渥美、常滑、瀬戸窯産の骨蔵器のほか、石製五輪塔や中国輸入陶器、鉄製鎌刃などがある。
  調査により中世墳墓としての構造が判明した遺構は、わずかに3基だけで、そのいずれもが山石や浜円礫、浜砂利などで構成される集石墓に分類されるものであった。
  なお、約3000平方メートルにわたる遺跡の分布範囲のうち、指定地となっている遺跡南端部には、ほぼ完形に近い骨蔵器(渥美壺、古瀬戸瓶子)が同一区画内に並んで出土したものや、歴代住職の墓石や周囲から集められた五輪塔が並べられたものがあり、本遺跡において特に重要な地点を含んでいる。


閉じる

●医福寺大般若経
 医福寺大般若経は、全600巻のうち大部分散逸している巻を含め470巻ほどが残存している。木曽義仲の右筆であった太夫坊覚明が写経したものと伝えられ、巻末に「右筆覚明」と記されているものが何巻か見られる。このうちの完形本31巻が市の文化財の指定を受けている。
  太夫坊覚明は、木曽義仲の右筆であり、軍師のような役割を果たしていた人物である。覚明が活躍したのは、平安時代の終わりごろで、寿永2(1183)年には、木曽軍が倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り、一時都に入京するなどの権勢を振るっていた。しかし翌寿永3年、後白河法皇と対立した義仲が、源義経などの鎌倉源氏軍に攻められ、近江粟津で討死すると、覚明は鎌倉軍からの追討を逃れるため、伊勢から渥美半島に渡り、この地に隠れ住んだ。このときに写経されたものが医福寺に残された大般若経であるとされている。
  法尺寺の震海和尚が宝暦3(1753)年に書き残した『医福寺大般若経私辨』によると、大般若経には散逸や破損などの巻をたびたび新しく書写したり、補修したりしたと記されている。鎌倉時代の正和5(1316)年「参州渥美郡山田泉福寺東ノ坊ニ書写シヲワル」(「于時正和五丙辰年六月十日/於三州渥美郡山田郷泉福寺東坊書冩畢/大檀那沙弥蓮念/右筆願主比丘圓證」)とある圓證の補書をはじめ、南北朝時代の紹瞿(しょうく)の補書などがあげられる。
  当初の写経が覚明ならば、渥美に隠れて再び名前を変えて鎌倉に現われる建久元(1190)年までに写されたものであるが、いずれにしてもその補書の始まりが鎌倉時代であり、田原市に存在する文書類の中でも最も古い年代に属するものを含むことになる。
  また、後世には、多くの文人墨客たちがこの大般若経を拝観しており、渡辺崋山が天保4(1833)年に記した紀行文『参海雑志』にもその内容が詳しく記載されている。


閉じる

●馬伏里神楽用具
 馬伏里神楽は、大字馬伏集落の中の年中行事のうちで最も重要な神社祭礼の日に、村の辻々で神楽を舞い、最後に村社「春日神社」の拝殿で舞を奉納する神事として永く行われてきたものであった。しかし、平成元(1989)年の大祭でこの里神楽が奉納されて以後、後継者の不足等を理由に奉納が途絶えてしまった。
  渥美地区では、江戸時代の末期から戦後まで(戦時下を除く)、江比間村や畠村(福江)などの比較的大きな集落で歌舞伎を上演奉納するいわゆる田舎歌舞伎が盛んであった。また、馬伏村のような小さな村では、若衆も少なく、また経費の面からも歌舞伎上演ではなく、里神楽奉納を続けてきたものと考えられている。
馬伏春日神社に保管されていたこれらの用具は、旧渥美町域で残存する唯一のものであり、用具の一つである屋形に慶応2(1866)年の墨書があることから江戸時代末期頃の制作のものも含まれている。
  なお、指定された用具には、「屋形(獅子頭含む)」「屋形横幕」「面」「太鼓(大・小)」「太鼓バチ」「オダマキ」「ノサ」「衣装」「笛」がある。


閉じる

●黒河湿地植物群落
 シデコブシやヤチヤナギ、シラタマホシクサなど貴重な植物が数多く群生している。
沼地には、ハッチョウトンボ、サンショウウオなども生息し、県の天然記念物にも指定されている。


閉じる

●藤七原湿地植物群落
 藤七原湿地は、衣笠山の東麓斜面にあり、標高凡そ45メートルから75メートルの範囲にわたる。
シデコブシの群生地として、東海地方最大級の規模を誇っている。


閉じる

●光岩
 光岩は、赤羽根西山標高約120mの北側斜面に位置し、断面は高さ9m、幅22m、岩体は中生代に形成されたチャートである。断層運動の熱によって生じる、光沢を帯びた断面は鏡肌と呼ばれ、この光岩は保存状況もよく、日本でも第一級の規模のものである。


閉じる

●田原祭
 「からくり人形」を載せた山車で広く知られている「田原祭り」。毎年9月中旬の3日間にわたり開催される。市内を練り歩く萱町、新町、本町の「からくり人形」を載せた豪華な「山車」は、市の有形民俗文化財にも指定されている。子どもが手おどりを舞う夜山車や打ち上げ・手筒・仕掛け花火なども披露される。


閉じる

●宮山原始林
 渥美半島の先端部、伊良湖岬にある宮山は、今もなお原生林として残されている。その北側の海沿い地域一帯は、、旧伊良湖集落のあった所で、明治38(1905)年に「陸軍技術研究所伊良湖試験場(通称、伊良湖射場)」として接収され、全村が現在の場所に移転した。また、宮山には、移転以前、山の中腹に伊良湖神社があって、その名の由来ともなっている。
  宮山は、愛知県の最南端付近にあって、高温多湿のため草木がよく茂り、古木神苑として原生林の状態に保たれている。樹木は、暖地性常緑広葉樹を主として、林内には常緑植物と陰地性の草木が密生し、林縁には常緑灌木が群生している。樹種としては、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、タブノキ、ヒメユズリハ、タイミンタチバナ、トベラなどがある。典型的な海岸暖地性の常緑樹の原生林として指定された。
 なお、昭和34年の伊勢湾台風の塩風害によって大きな被害を受けたが、現在は元の姿に回復した。


閉じる

●椛のシデコブシ自生地
 シデコブシは、日本特産のモクレン科に属する常緑または落葉性の小喬木である。その分布は非常に限られ、東海三県の伊勢湾周辺の地に野生し、他の地域ではほとんど見ることができない。山地または丘陵地の麓に沢があり、その沢沿いの日の当たる湿地を好み生育する。共存する植物としては、イヌツゲ、アカマツ、ノリウツギ、サワシロギク、ミズゴケ、ショウジョウバカマなどがある。三月中旬から四月上旬ごろにかけて、白ないしはピンク色の花をつけ、花弁は13〜18枚、白は細弁、ピンクは太弁で、実は9月ごろ赤色に熟す。
 シデコブシのシデの意味は、多弁の花びらが垂れ下がった様子が神道で使う玉串やしめ縄のシデ(四手・垂)に似ているところからきており、この名がある。
  椛のシデコブシ群落は、山麓湿地におよそ200株ほどが自生しており、樹高2〜3メートル、胸高周囲は10センチ内外である。またその周辺には、ヒノキ植林とハンノキ群落があり、山林側にはウラジロ群落が、谷筋寄りにはヤブツバキ、ミミズバイ、イヌガヤ、イヌツゲなどが見られ、草本類としてショウジョウバカマ、ヌマガヤ、サワシロギク、ヒメシロネ、アブラガヤなどの湿地性の植物が見られる。
  なお、近くには、県指定天然記念物「伊川津のシデコブシ」群落があり、半島内には他に田原市の「黒河湿地植物群落」や「藤七原湿地植物群落」がそれぞれ県と市から天然記念物の指定をうけている。また、シデコブシは、指定された群落以外にも半島のあちこちで見られ、県下でも有数のシデコブシ自生地となっている。


閉じる

●ハマボウの野生地
 ハマボウは、アオイ科に属する落葉小喬木で西南暖地の海岸付近に自生し、紀伊、伊勢、志摩地方に野生するものはあるが、田原市堀切町に自生するものが分布の北限にあたるとして指定された。
  初夏から8月にかけて、ムクゲに似たあざやかな黄色の花を咲かせ、花木の乏しい季節にその花を咲かせることから、訪れる人たちにより一層の風情を感じさせる。
  なお、近年田原市中山町の天白川河口付近にもこのハマボウの一大群落が発見されている。


閉じる

●伊川津のシデコブシ
 伊川津のシデコブシは、国指定天然記念物「椛のシデコブシ自生地」の東約500メートル付近にある。指定地の湿地には、約70株ほどが自生しており、他にヤマドリゼンマイ、ヘビノボラズ、ムカゴニンジン、ヤマイヌワラビなどが混生して生えている。


閉じる

●ハマセンダン
 ハマセンダンは、ミカン科ゴシュユ属の樹木で、国外では台湾、フィリピン、中国南方、インドシナ、マレー半島などに分布し、また国内では九州、四国から本州にかけての海岸近くに分布する南方系の高木で、樹の高さは15〜20メートルに達する。葉の形が一見すると「センダン」の葉に似ていることからこの名がある。
  田原市立堀切小学校地内にあるハマセンダンは、愛知県内で唯一、また太平洋岸における日本列島最北のものであり、極めて貴重な存在である。ただこの木の由来に関しては、はっきりしない部分が多く、この地に自生したものなのか、他から移植されたものなのかは不明である。
  このハマセンダンは、雌株で8月から9月にかけて枝の先に白く緑っぽい五弁の小さな花を咲かせる。根まわり4.4メートル、目通り3.1メートル、樹高約10メートルで、樹齢はおよそ500年と推定されている。なお、ハマセンダンは、通常南方から北上するにつれて、常緑から半落葉性に移行するとされるが、本樹は分布の北限であることと関連してか完全な落葉性を示す。
  平成8年には、樹木医による診断が行われ、樹勢が衰退しているという結果をもとに、土壌改良などの様々な樹勢回復作業が行われている。


閉じる

●泉福寺の文化財 シイの木
 泉福寺参道石段の登り口右側にあるシイの木は、樹高21.5メートル、幹周り4.1メートルで、その樹齢が約300年と推定される旧渥美町内随一のシイの巨樹である。泉福寺のある山は、まさに「シイの森」といってもよいほど、シイの巨樹、大樹が目立つところで、参道周辺だけでも目通り2メートル以上のシイの木が14本も存在している。
  なお、その樹種のほとんどはツブラジイである。
  平成10年の『ふるさと樹木診断調書』によれば、「本樹は、三河湾国定公園に指定された地 域内に所在し、原生の常緑広葉樹が残された周辺の環境に恵まれた場所に生育しており、またその周辺には他の貴重種植物も確認される」とある。しかしながら、本樹の主幹部地上3メートル付近の所には、大きな空洞、腐朽部があって、ツタ類が多く着生しており、何らかの対策が必要であるとの指摘もある。


閉じる

●伊川津貝塚
 伊川津貝塚は、福江湾に面した標高(海抜)2メートル前後の礫堆の上に立地する大貝塚である。貝塚の分布は、伊川津神明社を東端として東西約180メートル、南北約60メートルにひろがっている。過去発掘調査が行われたのは、この神明社付近を中心としたところと伊川津駐在所の敷地内である。
  この貝塚は、縄文時代後期から晩期にかけて形成され、縄文人骨を始めとして土器、石器、骨角器、貝製品、獣骨など多数の遺物が出土している。中でも叉状研歯のある頭骨や有髯土偶が有名である。また、縄文人骨の出土数は、191体に及び、吉胡貝塚(国指定史跡)出土の人骨とともに、人骨の形態や抜歯の風習の究明、屈葬、盤状集積墓などといった当時の埋葬方法の解明に役立つ好資料となった。
  指定地を含む伊川津神明社の境内は、現在最も良好な状態で貝塚が残されているところで、周囲の森には大きな樹木が茂り、参道から境内の広場には自然の砂利が全面に敷かれ、その一部分には、貝殻片の散乱(貝層の分布)がみられるところもある。なお、県の史跡に指定されているところは、森の中の貝層が上面に露出している場所で、この貝塚の中でも最も保存状態が良いところであるとされている。


閉じる

●皿焼12号窯
 皿焼古窯跡群は、昭和53年から三次にわたる発掘調査が行われ、13基の窖窯が発見された。これらの窯は、標高50メートル、面積1400平方メートルほどの狭い山の斜面を利用して、大きく上下二段に構築されていた。この窯跡群からの出土遺物には、山茶碗、小皿、甕、壺、片口鉢などがあったが、第13号窯からは、仏教的色彩の強く感じられる陶製五輪塔、瓦塔(宝塔)、風鐸(ふうたく)、舌(ぜつ)なども見つかっている。中でも陶製五輪塔は、実際の窯場から出土した大変に貴重な資料である。
  皿焼12号窯は、船底型の床面が二重に造られた窯である。第一次面の床には、焼台や遺物がそのまま残され、その上に天井を削り落とし、粘土を加えて第二次の床面が造られていた。また、壁面や分焔柱には、スサ入りの粘土や破損した山茶碗などで何度も補修した跡が見られ、繰り返し使われた窯であった。
  窯の規模は、全長約14メートル(前後に一部復元部分あり)、幅は最大で約2.5メートル、焚口を掘り下げて燃焼室をつくり、分焔孔を二つ設け、分焔柱を作り出している。上り傾斜となる焼成室には焼台が敷き並べられ、煙道部は幅が狭められ、全体が船の底のようになる渥美古窯の典型的な窯構造を示している。
  出土遺物には、山茶碗と小皿があり、これらが専門的に焼かれた「皿窯」である。
  窯は、発掘調査終了後に、後の復元保存施設の建設を考え、埋没保存されていたが、平成5年3月にこの窯跡が町の史跡に指定されたのを受けて、平成6年に復元整備が実施され、翌平成7年には「渥美町皿焼古窯館」(現田原市皿焼古窯館)として一般に公開している。渥美半島に数多く存在する渥美古窯の中で、唯一発掘当時の姿を見ることができる施設である。


閉じる

●阿弥陀如来立像
 成道寺は、享保8(1723)年の『潔堂門葉寺暦考記』によると応仁元(1467)年の創建とある。また『寺院調査票』によると元禄15(1702)年常光寺第一四世鳳山是麟和尚を迎えたとあり、この時天台宗より現在の曹洞宗へ改宗したとされている。
 この寺の本尊である阿弥陀如来立像は、桧材を使用した木造・寄木造で、像高91.4センチメートルであり、その作者は不明であるが鎌倉時代の制作と考えられる。
 平成7年度から平成14年度にかけて実施された渥美町寺院文化財調査により、市内寺院に現存する最古級の仏像であることが判明した。


閉じる

●泉福寺の文化財 中世墳墓
 中世墳墓は、天台宗の古刹泉福寺背後の山地から南に延びた舌状台地に位置し、標高150〜160メートル、南北100メートル弱、東西30メートルにわたり分布している。遺構は、台地の鞍部周辺に密集度が高くなっているが、東側に上下二段、西側にも上中下三段の狭い平地が造成され、そこにも複数以上の遺構が存在していることが確認されている。
  遺跡は、その後の遺跡整備を目的として平成14年7月から10月にかけて発掘調査された。調査の結果、遺跡全体が盗掘による激しい撹乱を受けていたため、正確な中世墳墓の数の把握には至らなかったが、約90基程度の中世墳墓が存在していたと考えられる。遺跡の造営時期については、出土した骨蔵器の年代などから概ね鎌倉時代から室町時代にかけてと推定される。
  出土遺物には、渥美、常滑、瀬戸窯産の骨蔵器のほか、石製五輪塔や中国輸入陶器、鉄製鎌刃などがある。
  調査により中世墳墓としての構造が判明した遺構は、わずかに三基だけで、そのいずれもが山石や浜円礫、浜砂利などで構成される集石墓に分類されるものであった。
  なお、約3000平方メートルにわたる遺跡の分布範囲のうち、指定地となっている遺跡南端部には、ほぼ完形に近い骨蔵器(渥美壺、古瀬戸瓶子)が同一区画内に並んで出土したものや、歴代住職の墓石や周囲から集められた五輪塔が並べられたものがあり、本遺跡において特に重要な地点を含んでいる。


閉じる

●泉福寺の文化財 参道石段
 泉福寺参道にある石段は、焼失前の泉福寺本堂より、まっすぐに急傾斜で下がって構築されている。265段からなる石段は、その最上部2段が改装されているものの、ほぼ築造当時の姿をとどめている。石段の築造時期については不詳であるが、石段上部の石柱に文化3(1806)年12月とあり、また最下段の石柱に文化九年とあることなどから江戸期には造られていたものと考えられる。
  石段の幅は、約2.10メートル、段差は約15センチメートル、傾斜角は約25度あり、中途に6ヶ所(石畳部分は4ヶ所)の平坦部が造られている。そして最上部付近の平坦部には、旧伽藍にあった仁王門などが建てられていたが、昭和37(1962)年の火災により旧本堂を含め焼失してしまった。
  なお、参道の石段脇には、近郷の村々より様々な願いを込めて奉納された石仏が15体ほど残され、この参道を登り泉福寺に参詣する人々により一層の趣を与えている。


閉じる

●泉福寺の文化財 十一面観世音菩薩立像
 吉祥山泉福寺は、天台宗の古刹である。『渥美十左衛門古文書』によると天平15(743)年の創建にして、観音比丘尼菊本(渥美重国の娘)の開山であったとの伝承がある。
 寺は、平安時代から室町時代にかけて、比叡山延暦寺の直末寺として、この地方の天台宗寺院の中核をなしていた。そしてちょうどこの頃、寺院東側の舌状台地に中世墳墓群が造営されたのである。また、江戸時代には、徳川家康から寺領117石4斗1升の朱印状が下付され、二代秀忠が慶長15(1610)年に鷹狩りに訪れた際の宿泊所ともされた渥美町内で最も歴史のある古い寺であった。しかし、昭和37(1962)年の火災により本堂、庫裏と共に藤原期の仏像などが焼失した。なお、現在の本堂は、昭和47年に再建されたものである。
 この寺の本尊である十一面観世音菩薩立像は、桧材を使用した木造・一木造で、像高87.1センチメートルであり、その作者は不明であるが鎌倉時代末期から室町時代の制作と考えられる。


閉じる

●泉福寺の文化財 薬師如来坐像
 鎌倉時代における泉福寺は、たいへんな隆盛をきわめていた。焼失した十一面観世音菩薩立像(藤原期、鉈(なた)彫り一本造)、聖観世音菩薩立像(藤原期)、大日如来坐像(鎌倉期、金銅造)や中世墳墓の造営がそのことを物語っている。
 薬師如来坐像は、金銅造で、像高28.0センチメートルであり、背面に鎌倉時代の銘が陰刻されている。
  勧進沙門金剛仏子永俊
  泉福寺嘉禎参年丁酉
  これによると、この金銅仏が嘉禎3(1237)年に「永俊」という僧侶の勧進により造られたことがわかる。
  なお、この像は、昭和37年の火災により焼損し、頭部(10.5センチメートル)と胴部のみが残存するのみとなったが、その刻銘によりその制作年代と作者が判明する貴重なものである。


閉じる

●松崎慊堂(まつざきこうどう) 崋山赦免建白書(かざんしゃめんけんぱくしょ)
  田原市指定文化財 天保10年(1839)
 別事にもこれ無く、渡邊登の事に御座候。
登は従来、佐藤捨蔵(一斎)社中のものですが、二十年来、私方へも師資の礼をとっており、私も底意なく話し合ってきました。その人となりを申せば、衣服に上着下着の揃いは一襲もなく、平日他行の上着を礼服の下着に用い、年始などに参っても、熨斗目(武家の礼服)の下着に、不揃いの常用の衣物を折り重ねて着用、十年前の用人の時から、只今家老になっても、その通りです。かく清廉の一端で万事御推察ください。さてまた謙譲で、誰人に対しても、一向家老風など少しもあらわさず、人の美事は一言一行でも、必ず感心し書きとめておきます。生来絵画を好み、世の画人と違い、画書、画伝など多く研究し、随分博覧のところもありますので、敬慕され、交友も多くあって、誰も感心せぬものはありません。第一私が存知して二十年以来、母親に孝養を尽くし、私方へ参り晩刻になりますと、急ぎ辞去を申すを、同席のものが強いて抑留しましても、夜に入り老母が案ずるので、残念ながらと断わって、帰宅いたします。私が偶々その宅へ参りました節、心付いたのは、老母に事(つか)える様子、何となく感じ入りました。総じて一点の文飾もなきこと、往来交遊の話も大概同様です。また五郎と申す弟、二十歳ばかりの若ものを、自身の子が三人もありますが、彼を順養子にして、母の心を安じ申すつもりのところ、去春ごろ疫邪で死去いたしました。以来、母の哀傷を悲しみ、なお万事心をつけて孝養いたす様子が、誰にも見うけられます由、私にも話されました。さてまた主人の家が困窮について、登が用人を勤めておりました時、先役の家老某が、御家督の御実子がありながら、病身と申し出て、酒井家の公子を養子に願い出て、その持参物で一時の急を救いましたが、遠祖備後三郎高徳の血統ここに絶えるを痛み、登自身が家老になりました時は、病身として隠居した公子に侍妾を一両輩もつけて、御出生あるようにして、御出生の上は、酒井家の家老河井某に、右公子の子を当君主の順養子になすように話し入れましたところ、河井も初めは不承知であったけれど、登が忠誠に感じ、承知いたしました故、御元祖の血統に復するようになり、私にもその話を申し聞かせ悦んでおりました。近ごろ六、七年以来の凶荒が打ち続いて、その在所田原の海に指し出ましたところ、津波の患にあい、一粒の租税もないのに、種々辛苦し、遂に餓死などのものなきように取り計らい、その上、家中人物の用捨、領内百姓の手当など毛頭の私心もなき故に、一統の人気悦服しております由。然るところ、此の度、牢獄の御沙汰に及び、主君をはじめ末々の輩まで一統悲歎いたしましたこと、御存知の通り申し上げるにも及びません。私もそのこと承りまして以来、別して焦労いたしましたのは、御存じもくださいますよう。
 世上の横議を伝え聞きますと、登を知るも知らぬも愁歎せぬものはありません。それが六月中旬になり、登の申し開きが立ち、近く出牢となる様子を伝え聞き、大概はまちがいないものと承り、まず安心いたしました。しかるに当月中旬になり、口書仰せ付けられ、口書の結語に、以ての外に手重のよう又々申しふれましたので、獄事に老練の人などに従い承(う)け合(あ)いましたところ、最早奉行所にて口書の定まった上からは、一寸の動揺もならぬこと、かような時分、老人の入らざる事で、登の天命に任ずべきなどと申します。いかさま隠居ものの出るところではないと承知いたしておりますが、世上の議論に、この獄の起こりは、一讒人があって、登と格別懇意のものが、登を動揺いたし、謀叛の罪に陥れ、それを以てその身昇進の階梯にせんため訴人いたしましたのを、御役人の中でお取り上げになり、右牢獄の御沙汰となりました。ところが六月中、登の申し開きが立ち、最早出牢が仰せ付けられるばかりになりましたものを、それでは右の讒人が己の罪が脱せられぬと存じ、なおまた再び訴えましたので、それから正面の夢物語、無人島の御吟味が、登が反故の上に移り、朝政誹謗と申す罪条に変え、この通りにしつらえました由。
 この間、病中で右の議論につきよくよく考えましたところ、口書の結語に軽重の実否は、外人の測知すべきところではありませんが、たとえ奉行所の手重の口書であるとて、必究のところは、宰輔の御方様の御裁断の上、相決まりますこと、その宰輔の御方様は、第一はその相公様、次はわが主人公でございます。私は山野の隠居で、碌々の老耄ながら、相公様御覚えの数にも入れ置かれました。
 公家御恩の身で、我が弟子に列し、技芸の末でも世に知られ、その人忠孝の実践もたしかにありまして、この獄、世上の人々、疑わしく存じますところ、朝政誹謗の罪条に陥りましては、いかがかと恐れながら存じられます。且つ登、母子慈孝の一家の事で、天下の大政が更(か)えられますことは万々なきことなれど、初め夢物語、無人島の事は、唐律及び明律でもありまして、謀叛でございますけれど、朝政誹謗の条は、漢律は亡(ほろ)び知ることならず、唐律にないことで、本朝の律にもございません。明律・清律にも、もとよりありません。何となれば、聖人の世には、四目を開き、四聡を達し、世界中の申し分、少しも中途にふさがり滞ることはなく、そのふさがり滞ることを恐れて、進卦の旌、誹謗の木なども立てられて、末々の雑人まで、十分に存じ寄りを申せと求められたのであります。左伝の頃は春秋変乱の時でしたけれど、鄭国の郷校の書生ども集まって国政を誹謗する故、或る人、郷校を毀たんといいましたところ、執政の子産がそれをとめました。誹謗で人を罪するは、周の幽王、秦の始皇、漢の武帝などにはありましたが、暴主の所為にて、実に乱世の事故で、聖人にはないばかりでなく、漢唐明清の律にも會(かつ)てございません。況(いわん)や登が誹謗は、いまだ反故中に認(したた)めたのみで、會(かつ)て外に露わしたものでなく、屋捜しをして反故取り出し、吟味したならば、誰かは罪人ならざらんと、この間中、逢う人の内、皆ひそひそと申すことでございます。此(ここ)の処などお考え合わせられ、大は天下有職の心を汲み取らせられ、小は登が母子慈孝の私(わたくし)を御燐愍遊ばされ、相公の御仁政いたらぬくまもなく、天下感悦奉りますようお願い申すことでございます。この意、貴兄が御勘考、苦しうないと思し召されば、御侍坐の節、何卒ひそかに尊聴に達せられますこと、相副(そ)(そ)えまじきことか。
二十日以後、この事にて、度々勉強他出にて、委頓いたしましたところ、二十六日夜、竟(つい)に霍乱と変じ、夢寐のごとく、終日いまだ醒めぬうち、昨日城中より参ったものがあり、尚また風聞甚だ急の由申しますので、勉強燭をとりて相認め、内々試み申し上げます。宜しく御進止下されますようお願いいたします。頓首再拝。

  七月二十八日 燈下

尚また事実でございますか、口書の内、鴃舌小言、慎機篇とやら申す書を認めかかったところ、国家の事に関わりましたこと故、誰にも見せずにしておいたが、ひそかに花井寅一とか申すもの一人に見せた由、その事伝え聞く通りでありますれば、成る程登にも似合わぬ租脱のことでございました。私は登と師友の義でございますが、右の書の事、少しも存知いたしません。私弟子の海野豫介は、私により合い登と大懇意のものですので、去冬その書のことを申し出て、脱稿したらば見せられよと話した由、それより両度、豫介よりその書を催促いたしましたところ、多用にて未だ脱稿せぬ趣も申しておりました。その書の趣意は、いずれ国家に関係ある訳に聞いておりますので、主人公へも御見せられれば、御心得にもなろうから、出来次第借してくれるよう申しましたらば、それは本意の事、有難き仕合わせと悦んでおりました由にございます。私共へも話もせず、豫介たとえわけあいもあるにいまだ借しもいたさぬ草稿を、花井一人に見せたと申せば、花井は格別に懇意のものかと相見えます。それほどの親友で、一見の上、世に漏れては登身分の為に悪しきことと思えば、直ちに焼き捨てるとか何とかと諫止すべきでありますのに、それを所謂(いわゆる)奇貨居る可しと心得て、夢物語、無人島などの事を取り組み訴人して、登を謀叛の罪に陥れ、おのれが昇進の階梯とせんとしたことは、人面獣心のものでございます。それ程の讒人を登は知らず、懇友と存じましたのは、これは登にも似合わぬことでございます。相公様には、登も花井もまだ知られざるものどもでありますから、大公無私の御裁断は申し上げるまでもございません。しかれども、登が右の書は料簡違いにせよ、国家の事を憂えてのことで認(したた)め、終にはつてを求めて尊聴に達す可しと申す一片の誠心、花井が右の書の事訴人は、親友の義を破り、己が栄耀をはかるの悪心と、人々誰も申すことでございます。この誣告反坐の讒人であります。讒人の言が果行されますれば、恐らく天下の公論いかがなるやと恐懼いたしております。この処も御含み置かれ、尊聴にお入れ下されますようお願い申し上げます。以上。

                                                      松 崎 慊 堂
     小田切要助様

なお花井寅一を以て、登を夢物語、無人島の事にて訴人いたし、その事不実でありますれば、これは唐律、明律、清律とも誣告律で、登やその事で時の罪に行わるべく、手許に明律なく、清律は落丁にて出てまいらず。
  唐律・巻十七の六丁
  すべて謀叛の者絞り、すでに道に上る者斬。妻子は二千里に流す。絞はクビリ殺スなり。すべて誣告人は各反坐す。
夢物語、無人島は実事なれば、登は斬罪なれど、いまだ発足せぬ前ならば絞り殺す、さればその事不実、花井の構虚に出でたれば、その罪は反って花井に帰す。これ反坐なり。
この紙は前前の不足を書きつぎましたまで、余りに繁蕪ですので、もし呈覧にもなりますれば、よろしく切り去りても。何となれば、御当代の律があればこそでございます。されども、それに御比校には相成るものと存じます。復又白す。

閉じる