花鳥を描く 渡辺崋山、椿 椿山の華やかな花鳥画、そしてその意味

開催日 令和元年5月25日(土)〜7月15日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山、椿椿山の華やかな花鳥画を展示

展示作品リスト

特別展示室
  作者 作品名 制作年 材質 規格 備考
  作 者 作品名 制作年 材 質 規格 備 考
  椿 椿山 崋山先生紅白牡丹図模本 弘化元年(1844) 紙本淡彩 掛幅 平井顕斎宅にて写す
重美 渡辺崋山 牡丹図 天保年間 紙本淡彩 掛幅  
  渡辺崋山 藤花雀蜂図 天保10年(1839) 絹本着色 掛幅  
市指定 渡辺崋山 風竹之図 天保9年(1838) 絹本水墨 掛幅  
  椿 華谷 摸崋山筆芦雁 天保12年(1841) 絹本着色 画帖  
  椿 華谷 全楽堂先生 雪中芦雁図 弘化2年(1845) 紙本淡彩 掛幅  
  渡辺崋山 溪澗野雉図(複製) 天保8年(1837) 絹本着色 掛幅  
  渡辺崋山    捉魚(複製) 天保12年(1841) 絹本着色 掛幅  
  渡辺崋山 翡翠扇面 天保8年(1837) 紙本淡彩 掛幅  
  椿 椿山 蔬果之図 嘉永2年(1849) 絹本着色 掛幅  
  椿 椿山 茗荷茄子秋虫図 天保9年(1838) 絹本着色 掛幅  
  椿 椿山 藕花香雨 弘化2年(1845) 絹本着色 掛幅  
  椿 椿山 濠梁逸趣図 天保3年(1832) 紙本淡彩 掛幅  
  椿 椿山 名花十友図 弘化4年(1847) 絹本着色 掛幅 菊池五山賛
  椿 椿山 紅葉小禽図 天保前半 絹本着色 掛幅  
  椿 椿山 八百延年図 天保14年(1843) 紙本淡彩 掛幅  
  平井顕斎 旭日鳳凰図 嘉永2年(1849) 絹本着色 掛幅  
重美 渡辺崋山 客坐掌記 天保3年(1832) 紙本淡彩 冊子  
  渡辺崋山 梅果図便面 天保8年(1837) 紙本淡彩 扇子  
  椿 椿山 四季草花図 天保前半 絹本着色 額装 2面
  渡辺崋山・立原杏所 松寿ニ介石図 天保4年(1833) 紙本淡彩 横巻  
  渡辺崋山 癸未画稿 文政6年(1823) 紙本淡彩 冊子 依頼画の控え
重美 渡辺崋山 客坐掌記 天保9年(1838) 紙本淡彩 冊子  
  渡辺崋山 客坐掌記 天保年間 紙本淡彩 冊子  
  渡辺崋山 脱壁 文政8年(1825) 紙本淡彩 冊子  
  渡辺崋山 脱壁 文政7年(1824) 紙本淡彩 冊子  
  渡辺崋山 客坐縮寫 文政9年(1826) 紙本淡彩 冊子  
  椿 椿山 水墨花卉画冊 嘉永2年(1849) 紙本淡彩 画帖 2冊
  椿 椿山旧蔵 芥子園画伝 二集   紙本淡彩 冊子 4冊
  椿 椿山 過眼録 天保〜嘉永 紙本淡彩 冊子 14冊

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、伝統的な東洋画の画風に西洋的な陰影・遠近画法を加えた作品に評価が高い。40歳で藩の江戸家老となり、藩財政の立て直しを進めながら、江戸の蘭学研究の中心にいました。「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となり天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

江戸に生まれ、幕府槍組同心。崋山が最も信頼した弟子です。長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、煎茶への造詣も深い。水彩画を思わす色調の花鳥画及び崋山譲りの肖像画を得意としました。

平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)

遠江国榛原郡に豪農の家に生まれ、幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称しました。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘に入門し、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入り、文晁より「画山写水楼」の号を授かりました。天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を得意としました。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものです。

椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

椿山の長男として生まれ、名を恒吉といいます。幼くして崋山に入門し、華谷という号を与えられました。崋山の友人で学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけました。椿山の画風を受け継ぐ清らかな色彩の花鳥画を得意とし、その才能を期待されましたが残念ながら椿山に先立ち、26歳で亡くなりました。

立原杏所 天明5年(1785)〜天保11年(1840)

水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒の子として、水戸に生まれる。 名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称し、東軒、杏所、香案外史などと号した。画は林十江、谷文晁に師事し、花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわしています。渡辺崋山、椿椿山と親しく、崋山の蛮社の獄の際、椿山とともに救援活動の中心として活躍しました。

↑ページTOPへ

作品解説

崋山先生紅白牡丹図模本・牡丹図

牡丹はその美しさはもとより、百花の王、金持ちや出世の象徴の花でもあるため、数多く描かれる画題です。椿山の模本は、崋山没後、崋山の墓参りの途中で平井顕斎の家で写したものです。

摸崋山筆芦雁・全楽堂先生雪中芦雁図

崋山の大作の花鳥画が少ないなか、弟子の写しも崋山の画技を知るうえでも貴重な作品となります。模写ながら雪中の芦雁図は荒涼とした冬の空気を伝える作品です。

溪澗野雉図

つがいの雉、竹・竹の子、フジ、ツツジなどが写実的に描かれ、実際見たはずもない静寂な自然のひとコマを切り取っています。それぞれ描き認めたスケッチを再構成したものでしょう。

鸕茲鳥捉魚

木、魚、水中の足など簡略に描かれていますが、魚を捕らえた瞬間の緊張感が伝えます。計算しつくされた技にそっくりに描くことだけが重要でないことがお分かりになるでしょう。

蔬果之図

ムギ、ニンジン、タケノコ、ビワ、ブドウ、ヒシ、レンコン、クワイ、ウメ、カブ、キノコ、モモ、ユリネ、ハス、クリ、ナス、マメが逆S字状に配置されています。これらは富、多子多産の子孫繁栄などを表わすもので、なんとも豪華な組み合わせです。たっぷり水気を含んだ筆でぼかしをたくみに使い、見事にそれぞれのモティーフの特徴を表しています。

茗荷茄子秋虫図

晩夏から初秋の様子が描かれています。作物であるミョウガ、ナスが中心となり、よく見るとテントウムシ、キリギリス、オケラが見えます。豊穣を願ったものと考えられます。モティーフをジグザグに配置しています。

藕花香雨

蓮には良縁、子孫繁栄、生命力の強さを表わす意味があります。泥の中から生えるにもかかわらず花は清香をはなち清逸の気にあふれることから文人に好まれる画題です。本図も真っ直ぐ伸びる蓮が縦長が面に強調されています。

濠梁逸趣図

レンコンは「藕」と「耦(つれあい)」の音通から良縁を祝し、子孫繁栄を表します。蟹は科挙の上位及第者である一甲に通じ、水面に見える魚も吉祥図によく使われます。魚は自由の境地を象徴する意味もあり、文人に好まれました。この作品には、科挙への合格への夢、すなわち将来の家族の繫栄の意味がありました。

名花十友図

宋の曽端白が10の花を10種の風流の友にたとえたもの。酴釄を韻友、茉莉を雅友、沈丁花を殊友、蓮を浄友、木犀を仙友、海棠を名友、菊を佳友、芍薬を艶友、梅を清友、梔子を禅友としました。この作品は簡略な筆遣いとさわやかな色彩が印象的です。正方形に近い画面に丸く花を並べバランスをとっています。

紅葉小禽図

幹は不自然に曲がりくねり、むろ(穴)がいたるところに見られます。このような大げさな表現は木の生命力を強調したもので、写実的なシジュウカラの表現とともに当時流行した長崎派(中国の沈南蘋の影響された画派)の影響によります。鮮やかな紅葉は日本的となっており、斬新な作品となっています。

八百延年図

描かれた叭々鳥はムクドリ科の鳥で、美しい鳴き声、人間の言葉を真似ます。嘴の付け根にふさふさした毛が特徴です。吉祥の鳥としても親しまれ、百と音通で百齢を表わす柏、さらに菊を加えることで長寿の吉祥図です。生命力を表現するため石と柏樹の表現は過剰なものとなっています。

旭日鳳凰図

鳳凰は古代中国の想像上の鳥で、五色の羽を持ち、天子が現れる前に飛来するとされます。旭日を加えることによりしに吉祥性はさらに増し、鮮やかな色彩によって鑑賞者にその力を感じさせます。

癸未画稿、客坐掌記(天保3年・9年)、脱壁・客坐縮寫(文政6〜7年)

崋山がメモした知識や絵画作品のデータベースとも言うべき手帳です。画家の興味の対象、当時鑑賞されていた作品などがわかる貴重な資料です。写真もコピーもなかった時代では筆によってすべて写され記録していました。これらの冊子をネタ本とし、そのアイディアを作品に反映させていました。

水墨花卉画冊

花鳥画は鮮やかな色彩で描かれますが、水墨で描くことは作家の力量が問われます。墨の濃淡、筆の運びによって色彩まで感じさせる技は。画家の腕の見せ所です。

椿椿山旧蔵 芥子園画伝二集

芥子園画伝とは中国の清時代に刊行され、日本には元禄年間にもたらされた絵の手本で、江戸時代の画家の基本的な手本となったものです。展示資料は梅、蘭、竹、菊など基本的な筆法が解説されています。椿山も実際この手本から引用した作品も確認されています。表紙の題字は椿山直筆、印は椿山の所蔵印です。筆跡は椿山晩年のものです。

↑ページTOPへ