田原市博物館 企画展同時開催 渡辺崋山の吉祥

開催日 平成29年12月16日(土)〜平成30年1月28日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

吉祥は絵を依頼される際、意識したモチーフとして描かれます。今回、年が改まるこの時期に、日本でも昔から愛されたこの画題として花鳥画や神像を展示します。

展示作品リスト

特別展示室
作品名 作者名 年代 備考
松に竹扇面図 渡辺崋山 江戸時代後期  
卯天神図 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
花禽冊 渡辺崋山 江戸時代後期  
渡辺小華 明治時代前期
画譜 渡辺崋山 天保年間  
大黒天 渡辺崋山 天保年間  
達磨大師之像 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
福禄寿 渡辺崋山 文化年間 田原市指定文化財
渡辺小華 明治時代前期
摸医祖之図 渡辺崋山 文化12年(1815)  
大黒天之図 渡辺崋山 文化14年(1817) 個人蔵
白衣大士并写経 渡辺崋山 文政5年(1822)  
威振八荒図 渡辺崋山 文政5年(1822)  
達磨立像図 渡辺崋山 天保元年(1830)  
八仙人之図 渡辺崋山 天保6年(1835)  
唐美人之図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
七福神 谷文晁 天保9年(1838)  
喜多武清
依田竹谷
相沢石湖
春木南溟
渡辺崋山
遠坂文雍
布袋図 渡辺崋山 天保年間  
神農図 渡辺崋山 天保11年(1840)  
紅梅図 渡辺崋山 江戸時代後期  
富嶽図 渡辺崋山 天保年間 個人蔵 南画十大家集所収
富士山図 渡辺崋山 天保8年(1837) 個人蔵
太子像 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
大黒天之図 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
仙桃図(複) 渡辺崋山 天保9年(1838) 原本は新津記念館蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

喜多武清 安永5年(1776)〜安政3年(1856)

江戸に生まれ、名は武清、通称は栄之助、字は子慎、号は可庵、別に五清堂・一柳斎・鶴翁という。谷文晁の門人で、江戸八丁堀に住み、渡辺崋山とは二十歳代からの親友である。文化13年(1816)の渡辺崋山、24歳の日記『崋山先生謾録』にも名が記されている。狩野探幽(1602〜1674)を慕い、花鳥画、人物画を得意とし、古画の摸本を多く所蔵していた。文政12年(1829)江戸大火の時、崋山は武清宅に駆けつけ、彼の摸本類を避難させたが、上北八丁堀の桑名侯邸裏で火に囲まれ、九死に一生を得たと曲亭馬琴(1767〜1848)宛の手紙(田原市博物館蔵)に書いている。
 大坂城落城の際の事実談を記録した『おあん物語』『おきく物語』には、それぞれ喜多武清と渡辺崋山が挿絵を提供している。山本北山(1752〜1812)の門人で、江戸で塾を開いていた儒学者朝川善庵(1781〜1849)が天保8年(1837)に跋文を書き、個別に版行され、後に合装された。読本の挿絵や美人画なども描き、古画の鑑定や摸写もすぐれ、作品としては、重要文化財である渡辺崋山関係資料の中に、田原藩校成章館に伝わった『孔門十哲像』の内、『顔回像』(文化13年)がある。この作品には佐藤一斎の賛が添えられている。また、無落款であるが、『山本北山画像』(東京国立博物館蔵)が知られる。鏝絵の名工として評価される入江長八(1815〜1889)が漆喰に絵画技法を取り入れるために学んだ師でもある。挿絵を提供した本に『萍の跡』『優曇華物語』『絵本勲功草』『可庵画叢』『近世奇跡考』などがある。

依田竹谷 寛政2年(1790)〜天保14年(1843)

江戸に生まれ、谷文晁に学び、名は瑾、字は子長、叔年、別号に凌寒斎・三谷庵・盈科斎。碁・画・書、詩の順によくすると伝えられる。江戸四谷塩町長全寺に葬る。

相沢石湖 文化3年(1806)〜弘化4年(1848)

江戸に生まれ、春木南湖(1759〜1839)に学び、名は万、字は文英、別号に観画楼主人。江戸城の御殿再建の際、杉戸絵を描く。人物花鳥画に優れた。

春木南溟 寛政7年(1795)〜明治11年(1878)

江戸に春木南湖の長男に生まれ、名は秀煕、のちに龍。字は敬一、通称は卯之助、別号に耕雲漁者・呑山楼。山水・花鳥に優れた。子に春木南華、孫に春木南渓、曾孫は春木南江。

遠坂文雍 天明3年(1783)〜嘉永5年(1852)

江戸に生まれ、名は文應、字は文雍・穆夫。号は雪堂・十友園など。通称を 庄司。田安徳川家に仕え、谷文晁に学ぶ。山水・花鳥に優れた。

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作品解説

渡辺崋山 卯天神図

天神は学問の神様である菅原道真(845〜903)を指す。道真は没後、天満大自在天神という神格で祀られ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まったとも言われる。朝廷に出る時の冠と檜扇を持つ姿で、道真を描くものが多いが、ウサギに擬人化されて描かれている。卯年に描いたものであれば、天保2年(1831)か。

渡辺崋山・渡辺小華 福禄寿図

 崋山が二十歳代前半に描いたと思われる鹿の図を中心に、渡辺家の家督を継いだ次男で、画家としても一家を築いた小華が右幅に蝙蝠、左幅に霊芝を配し、吉祥画題の「福禄寿」となしたものである。鹿はその音が「禄」(財産)に、蝙蝠は「蝠」(幸福)に、霊芝は「寿」(寿命)に通じるものであった。江戸時代においては、狩野派からも文人画家からも非常に好まれた画題である。17歳から関東文人画界の大御所である谷文晁の画塾写山楼に通い、徳川吉宗の時代、享保年間(1716〜36)に長崎に中国から来舶した沈南蘋を模して写実的な画風の鹿も多く描いた崋山であるが、二十歳代の日記や崋山自身の伝記とも言える『退役願書稿』を見ると、若い頃は「彩燈画を描く」との表現が多く見られ、画技習熟と生計のために初午燈籠の作画を熱心にしている。
           この作品の鹿の眼差しは若き日の崋山が慈しんだ弟妹を見つめるようにやさしい。現在では見ることのできない彩燈画も、このようにぬくもりのある絵であったことだろう。

渡辺崋山 模医祖之図

画面右に「文化亥探幽図模」とあり、文化年間の亥年で、文化12年(1815)、崋山23歳の粉本である。医祖とは、古代中国の伝説で、人々に医療と農耕を教えた人物で、神農、炎帝神農、薬王大帝などと称される。伝説によれば、木材を使って農具を作り、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えたとされる。狩野探幽(1602〜1674)は江戸狩野派の始祖と称される。江戸幕府の御用絵師として狩野派一族の地位を確立させた。同構図の絹本作品が『渡辺崋山遺墨帖』に掲載されている。

渡辺崋山 白衣大士并写経

岩上に白衣をまとう観音を描き、画面上部に般若心経を記す。落款に「文政壬午仲春書於全楽堂一塵不到處 華山邉登併寫」とあり、30歳の作である。

渡辺崋山 威振八荒図

「威振八荒」は鷹が鴨を襲う図である。この意味は権力者の威光がどこまでも届く吉祥画題を表す。日本南画鑑賞会を主宰し、南画研究の大家西村南岳による昭和48年(1973)の鑑定と箱書が付属する。

渡辺崋山 八仙人之図

蝦蟇仙人、李鉄拐、呂洞賓、何仙姑、張果老、鐘離権、藍采和、韓湘子の八仙人を描く。崋山の画の師である谷文晁も享和3年(1803)の年紀を持つ同構図の作品(静嘉堂文庫美術館蔵)を描いている。落款は「乙未嘉平月崋山外史」。崋山の二男、渡辺小華により、明治19年に箱書されている。

七福神

谷文晁と門下の六人による合作である。左上の谷文晁作品の大黒天に使用される印は「七十六翁」で、天保9年(1838)にあたる。七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われる。

渡辺崋山 布袋図

布袋(?〜916)は、中国の唐末の僧。上半身裸で太鼓腹を出し、袋や杖を持つ姿で描かれることが多い。画面左上に、「行也布袋、坐布袋、想布袋、何等自在 学釈道生筆 邉登」と記す。読みは「行く也布袋、坐するも布袋、布袋を想えば、何等自在なり」。 

渡辺崋山 神農図

古代中国の伝説で、人々に医療と農耕を教えた人物で、神農、炎帝神農、薬王大帝などと称される。伝説によれば、木材を使って農具を作り、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えたとされる。

渡辺崋山 富嶽図

初夢による縁起の良いものとして「一富士二鷹三茄子」と称される。その年が良くなるかを占うもので、日本一の山である富士山は信仰の対象にもなっている。明治42年(1909)刊行の『南画十大家集』に掲載される。落款は無く、画面左に、二重楕円印の「登」印がある。昭和11年(1936)用の年賀切手の原画に採用された。箱書は、衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六(1870〜1957)によるもの。

渡辺崋山 太子像

聖徳太子(574〜622)は用明天皇の皇子。現代では、厩戸皇子と言われるように変更される、厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)。おばにあたる推古天皇の摂政として十七条憲法などを整備した。若い時の姿で、髪の毛は角髪(みずら、美豆羅とも)で、法衣をまとい、柄香炉を持つ「孝養像」と呼ばれるもの。

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吉祥の画題について

一年中、青々とした葉を見せる。不老長寿の象徴。

一年中、青々とした幹を見せる。寒い季節でも若々しい緑、一夜にして成長、地下茎による繁殖といった、生命力の強さから、めでたい植物とされる。竹と祝が同音(zhú)で、爆竹の賑やかさ、祝い、繁栄の意味もある。文人画では竹の真っ直ぐに伸びる様が理想として取り上げられる。

松+竹+梅=歳寒三友=冬の寒さに耐えて変わることなく葉と花を付ける。変わることのない友情。梅=眉、斉眉(夫婦円満)。梅木の霊力で疾病が退散すると言われる。

王者の香り、君子の象徴。霊芝と蘭=君子の交、芝蘭競秀=徳の高い者同士、心通うことを祝う。

大黒天

頭巾をかぶり、右手に小槌、左手に袋を持ち、米俵の上に乗っている。恵比寿と共に福徳の神。飲食をつかさどる神。

達磨

禅宗の開祖、インド人仏教僧。眼光鋭く、髭を生やし、耳輪を付けた姿で描かれることが多い。

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