渡辺崋山と田原藩

開催日 平成27年5月30日(土)〜7月12日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

崋山は、江戸家老を勤めていた天保時代には、田原藩主第十一代の康直に仕え、蘭学研究のパートナーとして三宅友信や小関三英・高野長英・江川坦庵などがあり、農学者の大蔵永常も雇います。崋山没後、康直は奏者番をつとめることになります。

展示作品リスト

特別展示室
資 料 名 作者名 年 代 備   考
領知目録   安政7年(1684) 三宅備後守(康保)宛
龍泉寺寺領安堵状 三宅稲若康直 文政11年(1828)  
西光寺寺領安堵 三宅稲若康直 文政11年(1828)  
長興寺寺領安堵 三宅稲若康直 文政11年(1828)  
長仙寺寺領安堵 三宅稲若康直 文政11年(1828)  
田原城二ノ丸櫓写真     明治時代初期撮影
三宅友信侯宛答問 渡辺崋山 天保9年(1838)  
毛槍(御伊達道具)   江戸時代  
毛槍(御道中馬印)   江戸時代  
内科必読西医原病略 小関三英 著 天保3年(1832)  
外藩旗譜   天保年間 市指定文化財、蘭書類
夢物語(写本) 高野長英 著 江戸時代後期  
姫島馬図 三宅康明 文政年間  
七言絶句 儲嗣宗 小楼ノ詩 三宅康直 天保2年(1831)  
詩書 三宅康直 明治24年(1891) 個人蔵
詩書 三宅康直 明治時代前半 個人蔵
花鳥図 三宅友信 文政9年(1826)  
竹之図 三宅友信 文政10年(1827)  
養氣二行 三宅友信 慶応3年(1867)  
蓬窓一行 三宅友信 明治時代前半  
三宅康直宛書簡 渡辺崋山 天保8年(1837)  
ゑびす國の船志るし   昭和13年(1938)復刻 渡辺崋山原画は天保8年(1837)
江川坦庵像(複)     原本は江川文庫蔵
江川錦絵   明治20年(1887)  
門田の栄 大蔵永常著 天保6年(1835)  
国産考 大蔵永常著 天保13年(1842)  
豊島薬師如来の記 渡辺崋山 天保12年(1841) 個人蔵
巴江城郭平面図   明治44年(1911) 藩関係文書636
墨竹図
村上定平宛書簡
渡辺崋山 天保12年(1841) 個人蔵
高島流砲術伝書   江戸時代後期  
資 料 名 作者名 年 代 備   考
和無寡 渡辺崋山 江戸時代後期  
和無寡 三宅康保 江戸時代後期  
順応丸材料片   江戸時代後期 田原藩使用軍船
田原藩奏者番御手留   江戸時代後期 市指定文化財
田原藩奏者番御自留   江戸時代後期 市指定文化財

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

三宅康明 寛政12年(1800)〜文政10年(1827)

八代藩主康友の三男で、兄は九代藩主康和。江戸にて28歳で亡くなった。

三宅康直 文化8年(1811)〜明治26年(1893)

姫路藩主酒井雅楽頭忠実(さかいうたのかみただみつ)の六男で、幼名を稲若と言う。文政10年に三宅家へ養子に入り、三宅家11代藩主となった。八代藩主康友の側室が産んだ友信がいたが、田原藩では病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、稲若を養子とした。嘉永3年(1850)友信の長男であった康保を養子とし、家督を譲り、隠居した。

三宅友信 文化3年(1806)〜明治19年(1886)

三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。

三宅康保 天保2年(1831)〜明治28年(1895)

八代藩主康友の側室が産んだ友信の長男。天保3年6月に、その年3月に産まれたばかりの康直の娘於C(おけい)との婚約の願書が幕府に提出され、2日後に認可された。一時、康直夫人の願により、跡継ぎを外される恐れもあったが、用人真木定前の命を賭した願い入れにより、その難を免れた。明治2年(1869)の版籍奉還後には、田原藩知事に任命された。崋山が書の手本として「忠孝」を書いている。

大蔵永常 明和5年(1768)〜万延元年(1860)

永常は通称徳兵衛・亀太夫、字は孟純・亀翁、黄和園主人とも号した。現在の大分県日田市に生まれ、九州各地で、綿や蝋作りの技術を幼少から身に付けた。農業技術の研究と普及につとめた。天保5年(1834)田原藩興産方に召し抱えられ、日田喜太夫と称し、農業を指導した。その後、浜松藩に務めた。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人に数えられる。

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