平常展 新収蔵品展

開催日 平成26年5月31日(土)〜7月13日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室1

展示作品
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谷文晁 (1778〜1863)

No. 作品名 制作年 備考
1 山水図屏風 江戸時代後期 野田豊氏寄贈

貫名菘翁 (1778〜1863)

No. 作品名 制作年 備考
2 書杜甫詩 江戸時代後期 豊橋鉄道株式会社寄贈

渡辺崋山 (1793〜1841)

No. 作品名 制作年 備考
3 賢恵帖 江戸時代後期  
4 盧同煎茶図 江戸時代後期 加藤康
5 関羽之図 天保10年(1839)  
6 満月歩鹿図 天保8年(1837)  

福田半香 (1804〜1864)

No. 作品名 制作年 備考
7 竹図 江戸時代後期 加藤康一郎氏・柴田嘉子氏寄贈

山本琹谷 (1811〜1873)

No. 作品名 制作年 備考
8 西園雅集図 安政5年(1858)  

椿華谷 (1825〜1850)

No. 作品名 制作年 備考
9 崋山翁雪中蘆雁図 椿彰手模 弘化2年(1845)  
10 榴枝図 弘化3年(1846)  

渡辺小華 (1835〜1887)

No. 作品名 制作年 備考
11 天香玉兎図 安政4年(1857)  

渡辺華石 (1852〜1930)

No. 作品名 制作年 備考
12 公子図 明治時代〜大正時代  

井村常山 (1840〜1925)

No. 作品名 制作年 備考
13 湖上草堂図 大正4年(1915)  

白井烟 (1894〜1976)

No. 作品名 制作年 備考
14 秋の鳳来寺 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈
15 豊川閣山門 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈
16 田原城趾 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈
17 日出の石門 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈
18 田口岩古谷山遠望 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈
19 伊良湖岬 昭和時代 豊橋鉄道株式会社寄贈

大森運夫 (1917〜)

No. 作品名 制作年 備考
20 佐渡・鬼太鼓頌 昭和時代 作者寄贈

大羽梧郎 (1925〜)

No. 作品名 制作年 備考
21 浜辺の風景 昭和54年(1979) 橋爪玲子氏寄贈
22 月明 昭和57年(1982) 橋爪玲子氏寄贈

道家珍彦 (1934〜)

No. 作品名 制作年 備考
23 シルクロード(キャラバン) 昭和時代 鈴木敬一氏寄贈

大岡澄雄 (1935〜)

No. 作品名 制作年 備考
24 まわる 昭和63年(1988) 作者寄贈
25 防風林 平成7年(1995) 作者寄贈
26 池畔(2) 平成14年(2002) 作者寄贈

彦坂和夫 (1935〜)

No. 作品名 制作年 備考
27 機械の虫 平成16年(2004) 彦坂和夫氏寄贈
28 農工   彦坂和夫氏寄贈

山口秀太郎 (1951〜)

No. 作品名 制作年 備考
29 芽吹く晴天 平成5年(1993) 作者寄贈
30 青い空気 平成18年(2006) 作者寄贈

近藤真弓 (1955〜2011)

No. 作品名 制作年 備考
31 キルト LIVING TOGETHER 平成14年(2002) 近藤喜久生氏寄贈
32 キルト 早朝のアルカイックスマイル 平成13年(2001) 近藤喜久生氏寄贈

その他

No. 作品名 制作年 備考
33 金屋五郎三郎作黄唐銅風爐 江戸時代 野田豊氏寄贈
34 狩野梅春筆絵馬 正徳5年(1715) 村松自治会寄託
35 狩野梅春筆絵馬 享保6年(1721) 村松自治会寄託
36 家庭と学校 明治37年(1904)〜昭和10年(1935) 金田てる氏寄贈、伊奈森太郎旧蔵
37 渡辺崋山筆四州真景(複) (原本は文政8年) 西川統一郎氏寄贈
38 渡辺崋山筆両国橋図稿(複)   西川統一郎氏寄贈
39 渡辺崋山筆獄邸素描(複) (原本は天保年間) 西川統一郎氏寄贈
40 渡辺崋山筆鄭老画蘭之詩扇面(複) (原本は天保年間) 八木紀全氏寄贈
41 長嶋重左衛門作尾張屋旅館瓦 明治12年(1879) 八木紀全氏寄贈
42 大正12年(1923) 八木紀全氏寄贈
43 愛知県渥美郡田原町土地宝典 昭和11年(1936)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

貫名菘翁 安永7年(1778)〜文久3年(1863)

名は苞(しげる)。字は君茂・子善。号は海屋・海客、晩年に菘翁と称した。阿波藩の旧家で、小笠原流礼状指南役を勤めた吉井直吉の次男として生まれ、のち先祖の旧姓貫名に改姓した。17歳の頃より高野山に学び、さらに大阪の懐徳堂に入門。文化8年(1811)頃、京にて儒者として身をたてる。晋・唐の書を研究し、市河米庵・巻菱湖と並び幕末の三筆に数えられ書家として名が高い。頼山陽、田能村竹田、中林竹洞らと交流した。画は、はじめ狩野派に学び、その作品は保守的と評されてきたが、梅逸に比する技巧派としてみるべきものがあり、天保年間を中心に優品が多い。各地の風景の写生に励んだという逸話や、海屋が描いた「京師より伏見に抵」路上の真景に対する竹田の高い評価(『師友画録』)も注目される。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

白井烟 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)

愛知連豊橋市花田町に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称した。16歳より従兄の白井永川に南画を学んだ。大正3年(1914)に上京、近衛連隊に入隊。除隊後、大正6年に松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選。以後、帝展・新文展に出品する。戦後は日展に出品し、第5回に出品した「雲行雨施」が特選。昭和35年(1960)、日本南画院創設に参加し、理事を勤めた。

大羽梧郎 大正14年(1925)年〜平成11年(1999)

大正14年、渥美郡赤羽根村高松一色(現、田原市高松町)に生まれる。昭和20年、愛知第二教育師範専門学校(現、愛知教育大学)卒業。昭和22年、行動美術展入選。昭和31年、一陽展に初入選を果たす。昭和38年には、一陽展で特待賞を受賞し、翌年会友。昭和40年の一陽展で会員となる。昭和49年、発病し左半身の自由を失うもその制作意欲は衰えず、以後も多くの作品を発表する。平成2年、カナダ美術賞展でル・サロン賞を受賞。JIAS日本国際美術家協会会員となる。平成3年、ル・サロン展で入選、翌年には、アメリカ美術賞展で優秀賞を受賞。平成11年、逝去。平成13年、名古屋電気文化会館ギャラリーで「大羽梧郎遺作展」を開催。同年「大羽梧郎画集」発行。故郷の海岸風景をこよなく愛した画家である。

彦坂和夫 昭和10年(1935〜)

田原町に生まれ、仲谷孝夫に美術の指導を受けた。愛知県立成章高校へ進み、行動美術協会会友の大場厚に学んだ。大潮会学生の部特選受賞、武蔵野美術大学校(現武蔵野美術大学)西洋画科に進学。1957年、行動美術協会展入選、1961年には行動美術協会奨励賞受賞、翌年、会友に推挙。環境汚染が進むのを感じた彦坂は、1980年に行動美術協会を退会、翌年から環境保護活動への取り組みを始める。その意識は、非絵画としての立体芸術に及び、東京都江東区からの依頼による護岸壁画・モニュメントなどで自然と歴史の大切さを訴えた。

近藤真弓 昭和30年(1955)〜平成23年(2011)

赤羽根町高松に生まれ、地元の成章高等学校を卒業後、昭和62年に学習塾を開き、キルトを独学で学び、『マイパッチワークキルト Vol.1』に作品が紹介された。平成7年頃から農業に従事し、インターナショナルキルトウィーク横浜、インターナショナルキルトウィーク神戸、ブラザーHCキルトコンテスト、日本キルト大賞などのコンテストにて入選を重ねる。日本最大の賞「キルトジャパングランプリ」を2度受賞した。平成23年3月に死去。没後、田原・豊橋で遺作展が開催され、作品集が刊行された。

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