平常展 崋椿系の花鳥画

開催日 平成26年4月12日(土)〜5月25日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山の弟子たちは、江戸で崋山に絵を学びました。亡くなった後もその画系は弟子であった椿椿山をはじめとした遠洲や三河の画家たちに伝えられました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  丁亥画稿縮図 渡辺崋山 文政10年(1827) 館蔵名品選第2集3
  画帖 渡辺如山 天保2年(1831) 館蔵名品選第2集82
  明清花鳥画扇面写 椿椿山 江戸時代後期  
  扇面画帖 椿椿山 江戸時代後期  
  客坐掌記 椿華谷 嘉永3年(1850)  
  水墨画帖 野口幽谷 明治18年(1885)  
  蘆汀双鴨図(複) 渡辺崋山 文化11年(1814) 原本は常葉美術館蔵
  翡翠扇面 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第1集25
  呉竹之図 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集41
  歳寒三友図 椿椿山 嘉永7年(1854)  
市文 花卉図屏風 椿椿山 嘉永4年(1851) 館蔵名品選第2集59
  四季花鳥図屏風 長尾華陽 明治34年(1901) 個人蔵
  楊柳海棠双雀之図 椿華谷 嘉永元年(1848)  
  梅華長春図 渡辺如山 天保年間 館蔵名品選第1集95
  桃李山猿図 野口幽谷 明治11年(1878) 館蔵名品選第2集79
  芝仙祝寿図 渡辺小華 明治時代前期  
  風雨猛虎図 渡辺小華 明治時代前期 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。

野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)

江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

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作品紹介

渡辺崋山 丁亥画稿縮図 文政10年(1827)

表紙に「二号 丁亥画稿縮図 全楽堂」と書かれている。21丁からなるが、後半は、後から縮図を描こうと思ったものか、枠のみを描く頁もある。一丁目裏から二丁目表にかけての見開きには「三月廿九日」と書かれている。次の頁の見開きには「文政丁亥嘉平月」とあり、「嘉平月」は12月である。この頁はいずれも見開きでひとつの図を描いているので頁の交錯ではなく、最初から続けて3月と12月という離れた時期に描いている。少し後には二月十七日の依頼画の控が記録される。後世整理したものか、または写しの可能性もある。

渡辺如山 画帖 天保2年(1831)

のびのびと身近な植物や海を描いた作品。12場面あり、淡彩がほどこされみずみずしい。椿山のもとで画を学び始めて2年後、16歳の時の作品である。

渡辺崋山 翡翠扇面 天保8年(1837)

落款に「丁酉秋七月朔五日寫 崋山外史」とあり、没骨法で描かれているが、柔らかな柳の枝と翡翠のバランスが絶妙である。

渡辺崋山 呉竹之図 天保年間

呉竹が左下から左上へと大きく曲がる。枝葉は画面一杯に拡がり、青緑、朱を以って奔放に彩色されている。崋山40歳頃の作。落款は「全楽堂崋山樵邉登」。

椿椿山 花卉図屏風 嘉永4年(1851)

全12図の押絵貼屏風である。これらの作品は、当時の花鳥画のスタンダードとも言うべきものばかりで、画題的には、広義の吉祥的寓意を持つ花鳥画である。また、牡丹(国香春斎)は清初のヲ南田(1633〜1690)、竹石に小禽の描かれたものは明の陸包山(治・1469〜1576)に倣ったとする。当時の一般大衆の花鳥画に対する理想とするもの、すなわちこのような画題と誰々風のものを、といった要求に心憎いばかりのセットを用意し、応えたものと言えるだろう。この12図の構成からは、右隻、左隻のそれぞれの判断は難しい。配列は、その二が季節的順序を保っているが、その一については特に認められない。色彩的には淡彩と水墨作品を交互に配列している。
これらの十二図屏風は、それぞれの単独でも一作品として鑑賞できるものでもあるため、後に改装され、掛幅装となる場合が多い。このような当時の姿で残ることは少なく、椿山の花鳥画作品の基準となる貴重なものといえよう。

渡辺如山 梅花長春図 天保年間

無落款であるが、明治9年(1876)に画面左上に書かれた渡辺小華の賛により、如山の作品であることがわかる。「長春」とはコウシンバラの漢名で、蕾が開き始めた梅と寄り添うようにコウシンバラが描かれる。黄色と穏やかなピンクのバラの花びらが丁寧に描かれる。芳醇な香りが見ている者に漂ってくるようである。

椿華谷 楊柳海棠双雀図 嘉永元年(1848)

柳は墨と淡彩でリズミカルに描かれるが、葉の輪郭が強い線で描かれるため、画面全体に硬く感じられる。桃の花と枝の表現は父椿山譲りの描法を受け継いでいる。異なる二種の描き方を同一画面で表現している。崋山には意志的な強い線描が見られるが、椿山から脱却し、より強い自己主張を試みたのであろう。

野口幽谷 桃李山猿図 明治11年(1878)

手を伸ばし桃をとろうとしている猿の図。やわらかで墨を多く含んだ筆法は、師椿椿山に似た点がある。落款は「戊寅春日寫 幽谷生」。明治11年の春に描かれた作品である。

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