平常展 渡辺崋山が学ぶ

開催日 平成26年1月18日(土)〜2月16日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室・企画展示室2

渡辺崋山は江戸に生まれ、貧しい暮らしのなか、勉学に励みました。絵画・儒学・蘭学を中心に崋山が学んだ資料や田原藩に伝わった崋山の遺愛品、崋山を取り巻く人々の資料も展示します。

展示リスト

特別展示室
生まれ 伝記 崋山を知る
指定 資料名 作者 制作年 備考
  現存雷名江戸文人寿命附 畑銀雞 嘉永2年(1849)  
重文 退役願書稿 渡辺崋山 天保9年(1838) 渡辺崋山関係資料
重文 渡辺家年譜   江戸時代後期 渡辺崋山関係資料
  五雑組 謝肇淛 天保2年(1831)  
  雲烟略伝 清宮秀堅 大正8年(1919)復刻 文久2年(1862)序
重文 華山先生略伝補 三宅友信 明治14年(1881) 渡辺崋山関係資料
  文明東漸史 藤田茂吉 大正15年(1926) 明治17年(1884)初版
特別展示室
絵を学ぶ
指定 資料名 作者 制作年 備考
  客座縮臨 伝松村呉春 江戸時代後期 崋山旧蔵
  師 谷文晁      
  画学斎図藁 谷文晁 文化9年(1812) 館蔵名品選第2集46
  耕織図 渡辺崋山 天保年間  
  陳居中官女媚秀図 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第2集5
  画人物諸式巻 伝渡辺崋山 文政年間  
  友 立原杏所      
  秋谿捕鹿図 立原杏所 江戸時代後期 館蔵名品選第1集49
  渡辺崋山      
  関帝像 渡辺崋山 文化9年(1812) 谷文一写し
  鍾馗図 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第2集6
市文 関羽帝之図 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集17
重文 孔子像 渡辺崋山 天保9年(1838) 渡辺崋山関係資料
  信長判じ絵 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集33
重美 ヒポクラテス像(複) 渡辺崋山 天保11年(1840) 原本は九州国立博物館蔵
  参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920) 原本は天保4年(1833)
特別展示室・企画展示室2
学者との交流
指定 資料名 作者 制作年 備考
  儒学の師 田原藩家老鷹見星皐      
  萬物詩書 鷹見星皐 江戸時代中期  
  舟中布袋図 三宅康之鷹見星皐 江戸時代中期  
  爽鳩家譜   江戸時代中期  
市文 春秋五論 呂樸郷
鷹見星皐跋
寛政12年(1800) 渡辺崋山旧蔵書籍36
市文 月泉吟社 鷹見星皐撰
佐藤一斎序
享和2年(1802) 渡辺崋山旧蔵書籍66
  儒学の師 佐藤一斎      
重文 佐藤一斎像(複) 渡辺崋山 文政4年(1821) 原本は東京国立博物館蔵
  言志録 佐藤一斎 文政4年(1821) 渡辺崋山旧蔵書籍101
  言志後録 佐藤一斎 嘉永3年(1850)  
  言志晩録 佐藤一斎 嘉永3年(1850)  
  言志_録 佐藤一斎 嘉永7年(1854)  
  愛日楼文詩 佐藤一斎 文政12年(1829)  
  読本小説家 滝澤馬琴      
市文 玄同方言 曲亭馬琴 文政元年(1818)
文政4年(1821)
渡辺崋山旧蔵書籍59
  曲亭馬琴宛書簡 渡辺崋山 文政12年(1829)  
  俳句宗匠 太白堂孤月      
  太白堂孤月宛書翰 渡辺崋山 天保元年(1830) 個人蔵
  桃家春帖 太白堂孤月 天保4年(1833) 渡辺崋山挿画
  桃家春帖 太白堂孤月 天保9年(1838) 渡辺崋山挿画
  桃家春帖 太白堂孤月 天保10年(1839) 渡辺崋山挿画
  桃家春帖 太白堂孤月 天保11年(1840) 椿椿山挿画
  版に招いた儒学者 伊藤鳳山      
  学半楼十幹集 伊藤鳳山 天保13年(1842)
天保15年(1844)
 
  傷寒論文字攷 伊藤鳳山 嘉永4年(1851) 天保13年(1842)初版
  傷寒論文字攷続 伊藤鳳山 天保15年(1844)  
  孫子詳解 伊藤鳳山 文久2年(1862)  
市文 古文孝経定本 伊藤鳳山 江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍119
  藩に招いた農学者 大蔵永常      
  農具便利論 大蔵永常 文政5年(1822)  
  除蝗録 大蔵永常 文政9年(1826)  
  門田の栄 大蔵永常 天保6年(1835)  
参考 門田の栄 挿絵(永常肖像) 渡辺崋山    
市文 須原屋佐助宛書状 大蔵永常 天保5年(1834) 12月3日
  文章早引 大蔵永常 天保13年(1842)  
  国産考 大蔵永常 天保13年(1842)  
  広益国産考 大蔵永常 安政6年(1859)  
  書家 市河米庵      
  米庵墨談続編 市河米庵 文政10年(1827) 渡辺崋山旧蔵書籍127
  幕臣 屋代弘賢      
市文 崋山集 (写本) 桑調元 文政10年(1827) 渡辺崋山旧蔵書籍108
屋代弘賢書き込みあり
市文 日光山志 植田孟縉編
渡辺崋山
椿椿山等
天保8年(1837) 渡辺崋山旧蔵書籍135
  参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920) 原本は天保4年(1833)
特別展示室
残された書
指定 資料名 作者 制作年 備考
  春夜七絶(勉斎に与える) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  崋山先生数字書 渡辺崋山 天保年間  
  詩書扇面 渡辺崋山 文政10年(1827)  
企画展示室2
田原藩へ書籍を寄贈
指定 資料名 作者 制作年 備考
市文 経済録 (写本) 太宰春台 享保14年(1729) 渡辺崋山旧蔵書籍41
市文 西鶴置土産 井原西鶴 江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍48
市文 三河國二葉松 (写本) 佐野知尭 江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍54
市文 江戸繁昌記 寺門静軒 天保3年から 渡辺崋山旧蔵書籍55
市文 田畝里程考 黒田玄鶴 文政3年(1820) 渡辺崋山旧蔵書籍77
市文 艮斎文略 安積艮斎 天保2年(1831) 渡辺崋山旧蔵書籍84
市文 皇朝史略 青山延于 文政9年(1826) 渡辺崋山旧蔵書籍88
市文 皇朝經世文編 (抄本写本) 賀長齢 江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍123
  集古十種 松平定信 江戸時代後期 巴江神社蔵
市文 済急記聞 旦暮庵野巣 天保7年(1836) 渡辺崋山旧蔵書籍114
市文 農政本論 (写本) 佐藤信淵 文政12年(1829) 渡辺崋山旧蔵書籍117
  田_年中行事 佐藤信淵 明治10年(1877) 天保10年(1839)初版
市文 勧農固本録 万尾時春 享保10年(1725) 渡辺崋山旧蔵書籍118
企画展示室2
蘭学を学ぶ
指定 資料名 作者 制作年 備考
市文 職方外紀 (写本)   江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍56
市文 風説書 (写本)   文政9年(1826) 渡辺崋山旧蔵書籍31
  雷金製法 渡辺崋山 天保年間  
重美 客坐掌記 第十三(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本は個人蔵
  ゑびす國の船じるし   昭和13年(1938) 原本は天保8年(1837)
市文 西洋馬術要法(別名騎馬楷梯)   江戸時代後期 渡辺崋山旧蔵書籍90
指定 資料名 作者 制作年 備考
  高野長英      
  夢物語 (写本)   嘉永7年(1854)  
  避疫要法 高野長英 天保7年(1836)  
  孤山残雪図并七絶 高野長英 天保年間  
  三兵答古知幾 高野長英
鈴木春山
安政3年(1856)  
  小関三英      
  那波列翁伝 小関三英 弘化4年(1847)  
  江川坦庵      
  江川太郎左衛門英龍像(複)      
  五律扇面 江川坦庵 江戸時代後期  
  蒲公英之図 江川坦庵 江戸時代後期  
  村上範致      
  村上宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841) 個人蔵
企画展示室2
崋山に学ぶ
指定 資料名 作者 制作年 備考
  骸骨之図 渡辺崋山 天保年間 高木梧庵に与えた手本
  千山万水図 平井顕斎 嘉永3年(1850)  
  客座縮図 小田_川 江戸時代後期  
市文 両国橋納涼之図  渡辺崋山 江戸時代後期  
  両国橋納涼之図  鈴木鵞湖 元治元年(1864)  
  崋山筆亀台金母図写 斎藤香玉 江戸時代後期  
  黄粱一炊図 渡辺小華 明治15年(1882)  
重美 黄粱一炊図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本は個人蔵

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

清宮秀堅 文化6年(1809)〜明治12年(1879)

秀堅は、文化6年10月1日佐原村の農家に生まれ、不振であった家を復興、27歳で下総(しもうさ)佐原村(千葉県)の里正(村長)となり、2年間在職。漢学の他に地理・歴史にも造詣が深く、30年がかりで地誌『下総国旧事考』を著し、維新後は、新治(にいはり)県の地誌編集にあたる。地頭(村主)津田家の財政管理に当たった人物である。また、私財を投じて、佐原村など17か村の道路改修を行なった。佐原新田開拓にも活躍し、明治12年10月20日死去。71歳。字(あざな)は穎栗。通称は利右衛門・秀太郎・総三郎。号は棠陰(とういん)・縑浦漁者・総迺舎。主な著書として、新撰年表、北総詩誌等、多数の著書がある。

三宅友信 文化4年(1807)〜明治19年(1886)

友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の四男として生まれ、9代康和(1798〜1823)・10代康明(1800〜1827)は異母兄にあたる。母は銀、通称を鋼蔵、毅斎・芳春堂・片鉄などと号す。『ヲ林必携』では上田亮章と称す(上田亮章は田原藩士で、中小姓格32俵使番格、上田九左衛門政亮の嫡男で、友信の納戸役を勤めた喜作)。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直、1811〜1893)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。高野長英・小関三英らに蘭書の翻訳を行わせた。天保11年(1840)5月7日に田原へ移り、今田村安原へ御殿を建て、居住した。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住し、明治14年には、『華山先生略伝補』(重要文化財)を著し、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)、没後50年には従四位を贈られた。渡辺崋山の書簡には天保元年頃から登場する。著書に『ヲ林必携』、『西洋人検夫児日本誌訳』(天保3年、国立国会図書館蔵)、『泰西兵鑑初編訳』(安政3年刊)、『泰西兵鑑二編訳』、蘭書目録編(巴江神社蔵)がある。絵もたしなみ、田原市博物館には「花鳥図」(21歳)、「竹之図」(22歳)、「豊年楽事」五言律などが所蔵され、市内では、城宝寺に「平生萬事」七言律(36歳)、巴江神社に「有待解」(57歳)などがある。

藤田茂吉 嘉永5年(1852)〜明治25年(1892)

大分県出身。新聞記者、政治家。慶応義塾出身、福澤諭吉に学ぶ。郵便報知新聞主筆。明治15年立憲改進党結成に参加、同23年衆議院議員。

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
 明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所がいる。

立原杏所 天明5年(1785)〜天保11年(1840)

水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒(1744〜1823)の子として、水戸に生まれる。名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称し、東軒、杏所、香案外史などと号した。享和3年(1803)19歳で家督を継ぎ、小姓頭にすすんで禄二百五十石を給せられた。有能な藩士として徳川斉昭(烈公1800〜1860)の信任が篤かった。父翠軒は学者として名を成し、『大日本史』編纂の大事業にあたった。その父について幼少から学を修めた。また翠軒は、水戸における文化的側面の中心的存在、学者、文人との交流も深く、杏所にも大きな影響を与えた。
画は林十江(1777〜1813)に学んだのち、文化9年(1812)に江戸の小石川藩邸勤務となり、谷文晁(1763〜1840)に師事した。花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわす謹直な作品が多い。そのいっぽうで自由奔放に筆をふるった「葡萄図」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)のような作品もある。また篆刻、画の鑑識に長じていた。渡辺崋山、椿椿山(1801〜54)と親しく、崋山の入牢・蟄居の際、椿山とともに救援活動の中心として活躍した。

鷹見星皐 宝暦元年(1751)〜文化8年(1811)

鷹見爽鳩の孫。名は定允、字(あざな)は子允、通称弥一右衛門。三代爽鳩ともいう。江戸で細井平洲らに学ぶ。二十代で田原藩家老をつとめ、藩主や藩士に儒学を教えた。身内の不始末により、一時隠居し、麹町二番町で塾「有朋館」を開き、佐藤一斎・竹村悔斎・渡辺定通らを教えた。寛政6年(1794)に家老に復帰した。

佐藤一斎 安永元年(1772)〜安政6年(1859)

文化2年(1805)34歳で、朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい:岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の三男)と共に、多くの門下生の指導にあたった。天保12年(1841) 述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。安政元年(1854)83歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい: 述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。安政6年(1859)、昌平黌の官舎で没。
 諸大名以下門下3000人と称され、門下生には、佐久間象山(1811〜1864)、山田方谷(1805〜1877)、渡辺崋山などがいる。一斎の教えが幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。田原市博物館所蔵「渡辺崋山関係資料」の中に、孔門十哲像があり、その中の「顔回像(絵は喜多武清筆)に佐藤一斎が賛を加えている。

市河米庵 安永8年(1779)〜安政5年(1858)

書家、漢詩人。名は三亥、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎など。書家の市河寛斎の長男。父 寛斎や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。米庵という号は米芾に因んでいる。寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂候西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張徳川、津藤堂、徳山毛利、鯖江江間部などの大名にも指南を行った。江戸で門戸を張った巻菱湖(1777〜1843)、京都の貫名海屋(1778〜1863)とともに幕末の三筆に数えられる。文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。米庵60歳の肖像画を、渡辺崋山が描いている。享年80。西日暮里本行寺に墓がある。

曲亭(滝沢)馬琴 明和4年(1767)〜嘉永元年(1848)

読本小説家。本名は、滝澤興邦、後に解と改める。『玄同方言』(文政2年)に崋山挿絵、馬琴の息子琴嶺は金子金陵門下で、崋山と同門。代表作『南総里見八犬伝』。

太白堂孤月 寛政元年(1789)〜明治5年(1872)

五代太白堂、山口桃隣の弟子。姓は江口、文政4年(1821)、太白堂を継ぐ。天保2年(1831)9月、崋山は相州厚木に赴くにあたり、青山に住む孤月を訪ねている。翌10月、毛武へ旅立つ際には、孤月の紹介状をもらって行く。渡辺崋山の挿画による歳旦帖「桃家春帖」の刊行を長く続けた。挿画は崋山が蛮社の獄で捕えられると、椿椿山に、椿山が亡くなると、渡辺小華に引き継がれた。

伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)

羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出る儒者となる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。2年にして辞し、京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。

大蔵永常 明和5年(1768)〜万延元年(1860)

永常は通称徳兵衛・亀太夫、字は孟純・亀翁、黄和園主人とも号した。現在の大分県日田市に生まれ、九州各地で、綿や蝋作りの技術を幼少から身に付けた。農業技術の研究と普及につとめた。天保5年(1834)田原藩興産方に召し抱えられ、日田喜太夫と称し、農業を指導した。その後、浜松藩に務めた。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人に数えられる。

佐藤信淵 明和6年(1769)〜嘉永3年(1850)

出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)に生まれる。経世家、農学者。字は元海、通称百祐。椿園、祐斎、融斎、松庵、万松斎などと号す。16歳で江戸に出て宇田川玄随に蘭学を、井上仲竜に儒学、他に天文地理暦算測量を学んだ。諸国を遊歴して学を深めたという。文化年間には平田篤胤にも学んだ。文政期以降、著作活動を活発に行った。『田S年中行事』序文には、崋山からの依頼による出版物であることが記される。

安積艮斎 寛政3年(1791)〜万延元年(1860)

朱子学者。二本松藩の郡山(福島県)に生まれる。17歳で江戸に出て佐藤一斎の学僕となり、20歳のとき大学頭林述斎に入門する。文化11年(1814)神田駿河台に私塾を開く。詩文に優れ、文名高まり、天保14年(1843)二本松藩校敬学館の教授となる。嘉永3年(1850)には昌平黌教授にあげられた。多くの英才がその門下から出ている。著書には『艮斎文略』『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は、渡辺崋山の二男として江戸麹町(現在の東京都千代田区隼町)田原藩邸に生まれた。崋山が田原池ノ原の地で亡くなった時にはわずかに7歳だった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得する。嘉永4年(1851)、江戸田原藩邸で世子三宅康寧のお伽役として絵画の相手を命じられた。嘉永7年、絵の師椿山が亡くなると、独学で絵を勉強する。安政3年(1856)、江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、22歳の小華は渡辺家の家督を相続し、30歳で田原藩の家老職、廃藩後は参事の要職を勤めた。明治維新後、田原藩務が一段落すると、田原・豊橋で画家としての地歩を築き上げた。第1回内国勧業博覧会(明治10年)、第1回内国絵画共進会(同15年)に出品受賞し、明治15年(1882)上京し、中央画壇での地位を確立していく。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没。

高野長英 文化元年(1804)〜嘉永3年(1850)

名は譲、瑞皐と号し、はじめ卿斎と称し、後長英と改めた。仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。幼時に父と死別し、母と共に実家に戻り、伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同8年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同3年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保9年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。

小関三英 天明7年(1787)〜天保10年(1839)

出羽国の庄内藩・鶴岡出身の医者・蘭学者。名は好義、号は篤斎・鶴洲、はじめ三栄、後に三英と号した。江戸に出て、蘭法医吉田長淑に蘭医学と蘭語を学んだ。文政6年(1823)仙台藩に招かれ、蘭医学を教えた。同10年に再び江戸に出た。天保年間に渡辺崋山・高野長英と交流し、蘭書の研究にいそしんだ。天保3年から岸和田藩に召し抱えられ、天保6年には幕府天文台蘭書翻訳方を拝命された。蛮社の獄で崋山・長英の入牢を聞き、岸和田藩邸内で自害した。

江川坦庵 享和元年(1801)〜安政2年(1855)

江川英毅(1770〜1834)の子として生まれ、天保6年(1835)、父の死後、伊豆韮山代官職と三十六代太郎左衛門を継ぐ。字は九淵、号を坦庵と称す。所領は武蔵・相模・伊豆・駿河、のちに甲斐の幕領も加わった。優秀な人材を登用し、民政を施し、「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励、パンの製造でも知られる。渡辺崋山と交遊し、海防のため高島秋帆(1798〜1866)に砲術を学び、佐久間象山(1811〜1864)、木戸孝允(1833〜1877)らに教授した。嘉永6年(1853)のペリー来航の時、勘定吟味役格となり、品川沖に砲台の台場を築造、また、韮山に砲身鋳造のための反射炉(国指定史跡)建造に着手したが、完成(1857)を見ずに没した。

平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)

遠江国榛原郡川崎に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。

鈴木鵞湖 文化13年(1816)〜明治3年(1870)

下総金堀村(現千葉県)の農家に生まれた。名は雄、字は雄飛。はじめ一鶯、晩年に鵞湖と称した。天保7・8年頃、江戸に出て初め松月の門で画を学び、のち晩年の谷文晁(1763〜1840)に師事した。嘉永年間以降は日光・妙義山・京都・北越などを旅行しながら写生、画幅の縮写に努めた。故事人物画を得意とした。日本画家石井鼎湖(1848〜97)は彼の次男、洋画家石井柏亭(1882〜1958)・彫刻家鶴三(1887〜1973)兄弟は鼎湖の子にあたる。

斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)

上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃(よの)、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。

↑ページTOPへ

作品・資料紹介

重要文化財 渡辺崋山 退役願書稿

崋山は病気を理由に藩の年寄役を辞し、蘭学研究や絵画に専心したいと考えるようになり、16丁からなる退役願を藩に提出した。内容は崋山の生い立ちから家庭状況、画業、学問の経過、藩政に対する見解などから成り、崋山の伝記を検討する際の基準となる底本となった。「立志」や「板橋の別れ」などのエピソードや「見よや春大地も亨す地虫さへ」という句もこの冊子の中に記載されている

清宮秀堅 雲烟略伝

下総国香取郡佐原(現香取市)の名主清宮秀堅(1809〜1879)が著した幕末の画人の伝記をまとめたもの。

渡辺崋山旧蔵書籍

31 風説書 (写本)

幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類。寛文年(1666)から文政9年(1826)までの風説書留。

41 経済録 (写本)

経済すなわち 経世済民という広義の政治・経済・社会・制度・法令などについて論じた書である。

48 西鶴置土産

西鶴が52歳で没したあと、同年の冬に北条団水の編集により遺稿 集として刊行された。

54 三河國二葉松 (写本)

愛知県三河地方 の地誌書。三河国内の古城・ 古屋敷、古墳墓について来歴や関係人物を各郡・各村別に註記。

55 江戸繁昌記

江戸時代末期の街の様子 を漢文戯作で綴った書で、当時の名所、生活風俗、娯楽などが、軽妙な漢文で書かれている。

56 職方外紀 (写本)

イエズス会士のイタリア人艾儒略が編纂した5巻から成る世界地理書で、天啓3年(1623)に成立し、 同年に杭州で刊行され、1620年代後半に福建で重刊された。日本にも渡来し、禁書とされたにもかかわらず密かに伝写されて鎖国時代の世界地理知識の向上に貢献した。

77 田畝里程考

中国の耕地距離・面積を日本用に換算したもの。

88 皇朝史略

水戸徳川家当主徳川光圀が編さんした『大日本史』を簡略にした史書。

123 皇朝經世文編 (抄本写本)

清代の政治家・知識人600人以上の 文章、2000編以上を集める。「経世」のための一大参考書。羽倉外記から借用し、返却している。

114 済急記聞

天保飢饉に備えて天明の飢饉その他の事例による救済の聞書集。

117 農政本論 (写本)

農政の沿革、田租徴収・検見の心得等を記している。

118 勧農固本録

農民支配の心得・耕作の仕法等。

集古十種

松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの 学者や家臣・谷文晁をはじめとする絵師によって4年の歳月を掛けて行われた木版刷りによる古美術図録。

夢物語 (写本)

漂流民を乗せて渡来したアメリカ船モリソン号を打ち払ったことがいかに無謀であるかを夢の中での話として記し、幕府の対外政策を批判したもの。この書は写本で広まった。

高野長英 孤山残雪図并七絶

賛文は明の広東海防参将萬達甫(仲章)の七言絶句である。「瓊瑤湧地隔薼寄、凍雪初晴樹漸分、惣得梅華無多句、蹇鑪橋畔見林君」。訳意として、美しき玉が地上に湧き出で俗塵をさけてここに止る。凍りついた雪は晴れ春が来て木々はようやく本分をあらわす。全体に梅花が咲いた美しさは多くの言葉を要しない。片欄干の橋の側に西湖の孤山に隠棲した宋の大詩人和靖の姿が見える。

高野長英 避疫要法

長英の門下生である上州中之条の高橋景作に招かれて講義した内容を刊行したもの。高熱による疫病の対策を論じたもの。江戸芝神明の大観堂から刊行された。

高野長英・鈴木春山 三兵答古知幾

原典はプロイセンの陸軍将校ブラントの三兵戦術書の蘭訳本。タイトルはオランダ語の戦術taktiekの音訳。三兵とは歩兵、騎兵、砲兵を指し、タクチーキとは用兵術のことをいう。

小関三英 那波列翁伝

小関三英はナポレオン伝の翻訳も手掛けたが、本人存命中は出版されることは無く、没後18年を経て、田原の松岡次郎により刊行された。

江川坦庵 蒲公英之図

即興でタンポポを描いたものか。日頃から野に咲く花を観察しているからこそ、筆に付けた墨を紙に置くことで立体感を表現できる。縁の葉は多年草の力強さを表現し、花は細くかわいらしい。

↑ページTOPへ