平常展 文人画を中心に 〜彭城百川・岡田半江・帆足杏雨・渡辺崋山

開催日 平成24年9月29日(土)〜11月11日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

文人画とは、江戸時代中期におこり、明治以降近代にまで続いた、中国明・清期の文人画を学んだ絵画傾向を総称したものです。技術の洗練を嫌い、印象主義的表現や詩的情趣を重視する中国文人画の気風は、日本では教養人や職業画家によって受け入れられ、与謝蕪村や池大雅によって大成されました。また、江戸では谷文晁・渡辺崋山・立原杏所などが清の沈南頻の写実的な絵画や西洋絵画の気風をも取り入れ、独特の作品を生み出しました。

この展示では、当館所蔵の作品から文人画家の作品を選りすぐって展示します。長谷川コレクションの文人画とも合わせてお楽しみいただければ幸いです。

展示作品リスト

企画展示室2
通番 指定 作品名 作者名 形式 年代 備考
1   濂溪先生周元公像 渡辺 崋山 掛幅 文政3年(1820) 個人蔵
2   蓑笠櫂画賛 渡辺 崋山 掛幅 天保年間  
3   高士観瀑図 渡辺 崋山 掛幅 天保9年(1839)  
4   痩馬図 渡辺 崋山 掛幅 天保11年(1840)  
5   江山夕照図 彭城 百川 掛幅 延享3年(1746)  
6   花鳥図 彭城 百川 掛幅 延享4年(1747)  
7   南披楼雅集図 岡田 半江画、篠崎 小竹賛 掛幅 江戸時代後期  
8 重美 山水図 岡田 半江画、岡田 米山人賛 掛幅 享和3年(1803)  
9   秋江漁楽図 帆足 杏雨 掛幅 天保13年(1842)  
10   山頭皓月図・江上吹笛図
(二幅対)
池 大雅 掛幅 江戸時代中期  
11   渓山楼閣図 春木 南湖 掛幅 江戸時代後期  
12   秋渓覓句図 釧 雲泉 掛幅 文化5年(1808) 四幅対「四季山水図」の
うちの一幅
13   松寿介二石友図巻 渡辺 崋山・立原 杏所 横巻 天保4年(1833)  
14   全楽堂主人墨画(画道名巻) 渡辺 崋山 横巻 天保年間  
14   蟷螂捕蝉図扇面 渡辺 崋山 扇面 天保年間  
15   崋山所用便面 渡辺 崋山 扇面 天保年間  
16   花卉十二頁 椿 椿山 画帖 江戸時代後期 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は田原藩士の長男として江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年(1832)、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

彭城百川 元禄10年(1697)〜宝暦2年(1752)

名は真淵、号を蓬洲、八僊堂と称す。名古屋の薬種商の八僊堂に生まれた(婿養子説あり)。はじめ俳句を志し、芭蕉の弟子の各務支考(1665〜1731)に師事するが、やがて支考と離れ、京都を拠点として北陸や長崎に遊び、48歳頃から絵を職業として元文年間(1736〜41)には法橋位を得た。作風は元明の画を倣ったものや、南宗画と北宗画を折衷したもの、俳画風のものまであり、与謝蕪村(1716〜83)に影響を与え、南画の先駆者のひとりに数えられる。

池大雅 享保8年(1823)〜安永5年(1776)

 本来の名字は池野、通称は秋平、雅号として大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵など。京都の銀座役人の子として生まれ、幼にして書をよくした。画は柳沢淇園、祗園南海らに影響を受け、『八種画譜』等の舶載の木版画譜類を通して中国南宗画を独学した。さらに日本の伝統絵画や西洋画の表現法をも研究し、のびのびとした描線、明快な色彩、奥行のある空間把握を特色とする独自の画風を形成した。また、画作に際しての構想には他の文人画家にはない豊かさがあり、与謝蕪村とともに日本の南画の大成者と呼ばれる。書においても各体を善くし、個性豊かな書風を生み、さらに篆刻をよくした。

春木南湖 宝暦9年(1759)〜天保10年(1839)

江戸に生まれ、本姓は結城、名は鯤、字は子魚、通称は門弥。別号に幽石亭、烟霞釣叟、呑墨翁などがある。詩文もよくし、当時の江戸画壇では谷文晁と並び称された。伊勢長島藩主増山雪斎に仕え、京阪・長崎に赴き、画の修行に励んだ。長崎遊学に赴いた際の日記『西游日簿』の執筆は、大坂で著名な好事家木村蒹葭堂のもとを出立するところから始まり、岡山の浦上玉堂を訪ね、やはり長崎を目指していた司馬江漢とも同道した。文晁派が挿絵を提供している版本に南湖も提供している例があり、文晁やその門人達との親密な交流がうかがわれる。子の南溟や孫の南華も画人として名をなした。

釧雲泉 宝暦9年(1759)〜文化8年(1811)

島原半島・雲仙連峰の山麓にある肥前国高来郡野田名(長崎県雲仙市千々石町戌)に生まれた。名は就、通称は文平。幼い頃、父と長崎へ行き、中国語と画を学ぶ。寛政年間(1789-1801)には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴した。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に移り、亀田鵬斎(1752〜1826)・大窪詩佛(1767〜1837)などと交流。文化3年以降越後(新潟県)をたびたび訪ね、越後出雲崎で客死。山水画を得意とした。

立原杏所 天明5年(1785)〜天保11年(1840)

水戸藩士・儒学者である立原翠軒(1744〜1823)の子として、水戸に生まれた。名は任、通称は甚太郎のち任太郎、雅号として東軒、杏所、香案外史など。画を林十江(1777〜1813)、のち谷文晁に師事した。花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわす作品が多い。
渡辺崋山、椿椿山と親しく、崋山が蛮社の獄で入牢していた際には、椿山とともに救援活動の中心として活躍した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

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作品紹介

彭城百川 江山夕照図 延享3年(1746)

日本南宗画の創生期に活躍した百川の代表作である。百川の生家である名古屋の薬種商八僊堂は、中国からの帰化人と伝えられる。絵画学習は舶載されてきた中国画や画譜類を学びながら習得したと言われるが、元文年間(1736〜41)には法橋位を得て、48歳頃から絵を職業としており、その時期の作品である。その作風は「春秋江山図屏風」(東京国立博物館蔵)に代表される元明画風のものや北宗画と南宗画を折衷したものから俳画など様々なスタイルを見せる。
夕焼け雲が薄らいで、暮の靄が射し始めている。画幅のサイズも影響しているが、その遠近感の雄大さは特筆される。百川も自信のある作品であったと思われ、大坂の木村蒹葭堂(1736〜1802)に贈ったもののようで、図中に「蒹葭堂」の所蔵印が捺されている。また、掛軸の裏面には明治時代初期の篆刻家で、煎茶界の重鎮であった山本竹雲(1826〜94)が「此の彭蓬州山水画幅は、もと浪速蒹葭堂遜斎翁の収蔵なり。近時流転して伊谷老人の愛玩と為る。此の如き佳品多く獲難し、蔵者の子々孫々萬年長く保存すべし。」と伝来を記している。

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