平常展 渡辺崋山と椿椿山の花鳥画

開催日 平成23年5月21日(土)〜平成23年7月10日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

崋山は椿椿山に花鳥画を学習することをアドバイスしています。

展示作品リスト

特別展示室
No. 作品名 作家名 年代 備考
  梔子雙雀(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  黄菊遊禽之図(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  蟷螂捕蝉図扇面 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  一覧縮図 椿 椿山 文政2・3年(1819・1820) 館蔵名品選第2集56
  雲煙過眼 椿 椿山 文政5年(1822) 小澤耕一氏収集資料
  過眼録 椿 椿山 天保3・4年(1832・1833)  
  梅果図扇面 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第2集25
  ニ仙雙立扇面 椿 椿山 江戸時代後期  
  躑躅和歌 渡辺崋山 文政年間 個人蔵
  花鳥之図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  闔家全慶図 渡辺崋山 文政9年(1826) 個人蔵
  蘭石之図 渡辺崋山 天保8年(1837) 個人蔵
  黄雀窺蜘蛛図(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は個人蔵
  吉野懐古(複) 渡辺崋山 江戸時代後期 こむな日にいくさもせしか花の山
  名花十一図 渡辺崋山 江戸時代後期 館蔵名品選第1集39
  藕花香雨図 椿 椿山 弘化2年(1845) 館蔵名品選第1集62
  四愛図 椿 華谷 弘化3年(1846) 個人蔵
市文 花卉図屏風 椿 椿山 嘉永4年(1851) 館蔵名品選第2集59
  牡丹之図 椿 椿山 嘉永3年(1850)  
  翡翠扇面 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第1集25
市文 湖石白猫図 渡辺崋山 天保9年(1838) 館蔵名品選第2集27
重美 猫図(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は出光美術館蔵
  渓澗野雉図稿 渡辺崋山 天保年間 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作品略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。

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作品紹介

渡辺崋山 梔子雙雀・黄菊遊禽之図

画道名巻は渡辺崋山から弟子の高木梧庵に与えられた手本として伝えられる。元は21図の横巻であった。

椿椿山 雲煙過眼

「雲煙過眼」とは、蘇軾の『宝絵堂記』によれば、雲や煙がたちまち過ぎ去ってしまうように、物事を長く心に留めないこと。物事に執着しないことの意味である。とりめもなく気の向くままに残したスケッチ帳である。

椿椿山 一覧縮図

表紙に「文政録 二番 一覧縮図 椿山藏二」、裏には「英一蝶 筆一 茶家 画家 名家 過眼録 卯至辰」と墨書で記される。
 文政二から三年、つまり椿山19歳から20歳にかかる、現存最古の資料である。その名の示すとおり展覧会に見た作品、什物の縮図及び写生を描きとめた備忘禄である。谷文晁、渡辺崋山をはじめとする関東の文人画家はそれぞれ膨大な数の備忘録を残している。

渡辺崋山 梅花図扇面

落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。

躑躅和歌 渡辺崋山

「わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」
 「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したものです。文政年代のものと思われる。

闔家全慶図 渡辺崋山

闔家全慶とは、雌雄の鶏が雛を連れて遊ぶ意味で、向かって右側に雌雄の鶏、左に二羽の雛が描かれる。他の作品には見られない「抱壅」と読める落款を使用している。襖の引手部分の補修が明らかで、かつて田原城の小襖絵であったとの言い伝えがある。

藕花香雨図 椿椿山

「藕花」とは蓮の花を指す。椿山は作画活動の全期をつうじて、蓮の絵を描いている。蓮は子孫繁栄、恋、結婚にまつわる幸福と、仏教のシンボルとしてイメージされてきたことから、当時の人々の需要が多かったことであろう。雨に煙る水面を蓮の茎がゆらゆらと伸びる様は、まさに浄土への導きをイメージする。盛りを過ぎた葉の端は弱々しく枯れ、若葉は張りのあるみずみずしさを湛える。水面に見える水草も、蓮の茎に絡む葦も計算された構図である。縦長の画面が蓮の花の香り漂う幻想的な情景を、いっそう引き立たせる。弘化年間(一八四四〜四八)から、椿山の作風はより柔らかな方向へと向かう。それは、絵の具に水を含ませる方法の変化によるもので、この作品はその過渡期にあたる。椿山の描く蓮図の代表作に挙げられる。

渡辺崋山 翡翠扇面

落款に「丁酉秋七月朔五日写 崋山外史」とあり、没骨法で描かれているが、柔らかな柳の枝と翡翠のバランスが絶妙である。

溪澗野雉図稿 渡辺崋山

魚の泳ぐ清らかな渓流で今まさに水を飲もうとする雄の雉子を中心に、岩上に躑躅の花が咲き、薄紫の房が垂れる藤の枝、雄の雉子を見守る雌の姿が描かれる。原画は幕府の医官曲直瀬家所蔵で、中国明代の大家呉維翰によるもので、構図をやや変えて、模写したものと言われる。完成作品図(山形美術館所蔵)の款記には「丁酉四月製崋山邊登」とあり、白文長方印の「崋山」を捺すが、この稿は白文方印の「崋山」と白文長方印の「模古」が捺される。図中に描かれる鳥や魚は、崋山が田原蟄居中に描いた『翎毛虫魚冊』内のスケッチを元にしているとの指摘もあり、その写実力や画面全体に広がる清冽な気から、最晩年に描かれたと考えられる。また、山形美術館の完成作品には、元の所蔵者による伝来書や譲り状が付属し、その譲り状によれば、この作品は遠江国(現在の静岡県西部)の明昭寺の水雲和尚が、崋山門下の友人を通じて、寺の什宝にふさわしい作品を描いてもらった。また、付属資料として、『溪澗野雉図』の縮図が所載されている椿椿山筆の『足利遊記』がある。

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