平常展 谷文晁と渡辺崋山の山水画

開催日 平成23年1月5日(水)〜2月13日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は、17歳で谷文晁の画塾写山楼に通うようになります。師の谷文晁は山水画を最も得意としました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  画冊 谷文晁 寛政3年(1791) 個人蔵
  画学斎図藁 谷文晁 文化9年(1812) 館蔵名品選第2集46
  耕織図 渡辺崋山 天保年間  
市文 山水画稿帖 渡辺崋山 江戸時代後期  
  毛武游記図巻(複) 渡辺崋山 天保2年(1831) 原本常葉美術館蔵
  帰都日録 渡辺崋山 文政10年(1827)  
  夏景山水図(春江泛舟図) 谷文晁 寛政9年(1797) 館蔵名品選第2集44
  驟雨帰魚図 谷文晁 寛政8年(1796) 館蔵名品選第1集45
  松渓水村図 谷文晁 寛政年間  
  金碧群仙之図 谷文晁 文化年間  
  楼閣山水図 谷文晁 文政9年(1826)  
  山水図 谷文晁 江戸時代後期  
    大窪詩仏賛    
  甲州望岳図 谷文晁 寛政12年(1800)  
  秋景山水図(倣藍瑛山水図) 渡辺崋山 文政年間前期 館蔵名品選第1集15
  夏山欲雨図 渡辺崋山 文政3年(1820) 館蔵名品選第1集4
  西園雅集画稿 渡辺崋山 江戸時代後期  
  翠陰消夏図 渡辺崋山 文政3年(1820) 館蔵名品選第1集3
  桃李園夜遊図 渡辺崋山 天保2年(1831) 館蔵名品選第1集40
  青緑山水図 渡辺崋山 天保3年(1832) 館蔵名品選第2集12
  秋景山水図 渡辺崋山 天保6年(1835) 個人蔵
  高士観瀑図 渡辺崋山 天保9年(1838) 館蔵名品選第1集28
  江戸真景二図(目黒・山谷) 渡辺崋山 江戸時代後期  
重文 于公高門図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本個人蔵
重文 千山万水図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作品略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。
田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

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作品紹介

谷文晁 画学斎図藁

文晁は白河藩主松平定信付の御用絵師であった。文化年間(1804〜1818)前半も、公務に多忙であったが、この年、定信は隠居し、楽翁と号し、江戸築地の欲恩園に転居している。文晁が定信の付人を免ぜられた年である。この資料は180丁以上に及び、題箋は「画学斎図藁」と印刷されたものが貼り込まれている。文晁自身が作らせた題箋かは不明だが、年に数冊のペースで制作されるとすれば、必要であったかもしれない。1丁目表の扇面形の余白には『正月九日』、1丁目裏には「正月十一日」の記述が見られる。1月15日には文化4年にも描いた『八大竜王図』(東京都済松寺蔵)と同構図の縮図がスケッチされている。注文画の控が多いが、2月4日には白文方形印の「文晁之印」と朱文方形印の「画学斎」、朱文長方印の『重陽生』(文晁は9月9日生まれ)が捺され、「重陽生」の横には「銅印 像鈕」「熊山篆」の添え書きも入れられ、入門者の記録や覚え的な事項も書かれている。前半に多少月日の交錯と考えられる場所も散見され、後世の綴り替えの可能性もあるが、概ね正しく月日が記入され、末尾近くでは7月の記述があり、これだけの作品群を半年強でこなしたというのは、驚くばかりである。『田原市博物館館蔵名品選第2集』に全図版が見られるCD-ROMが付録として付いている。

渡辺崋山 毛武游記図巻(複)

崋山が毛武地方を訪ねたのは、天保2年10月から11月のことであった。10月11日に江戸を発ち、中山道を通り、妹の嫁ぎ先である桐生の岩本家を訪ねた際の記録は『毛武游記』(重要美術品・個人蔵)として知られる。この図巻は実景に則して、広大な風景を鳥瞰的に描いたもので、細い描線のみで16図が描かれる。

渡辺崋山 帰都日録

11月10日に田原を出発し、小田原宿までの旅の記録である。この年、藩主康明が28歳で病死したが、弟の友信を廃嫡し、姫路の酒井家から養子として稲若をむかえることとした。友信は田原城藤田丸に居を構えた。崋山も田原へ同行し、田原に22日間滞在し、11月10日田原藩士である中小姓格で友信の納戸役の上田喜作・中島源太夫と3人で田原から江戸へ向かった。小田原から江戸までの記録は別に記したのであろう。

谷文晁 夏景山水図(春江泛舟図)

寛政時代には、着色画も多く見られる文晁であるが、水墨作品でも濃淡で微妙な遠近感を表す技能を完全に習得していることがわかる。のちの烏(からす)文晁時代のダイナミックな表現を予感させる作品である。

谷文晁 驟雨帰漁図

文晁の寛政年間(1789〜1800)は白河藩主松平定信付の御用絵師となり、公務に多忙を極めた時代であった。真景図の代表作である『公余探勝図』(重要文化財・東京国立博物館蔵)も寛政5年の作である。寛政時代も後半にいたり、水墨調の作品でも墨調中心と筆調中心に、さらに軟質なものと硬質なものに分けられるが、極端に相反する系統の作品群に分かれていく傾向がある。この作品は文化年間後半から文政年間に多数登場する墨調の粗荒なものへ向かう過渡期の作品ととらえたい。文晁は定信の命により前年から各地の古器旧物や絵画の摸写を行い、この年、門人喜多武清(1776〜1856)を同行して西遊し、京阪に滞在した。落款に「丙辰仲秋寫於菊堂席上 文晁」とあり、寛政8年8月であった。この作品には古美術品の調査依頼をし、立ち会った儒学者中井履軒(1732〜1817)の甥中井蕉園(竹山の子、1768〜1803)の添幅と書簡が付属しており、関西訪問時に描かれたことがわかる貴重なものである。

谷文晁 甲州望岳図

落款に「庚申二月廿二日寫 文晁」とあり、寛政12年(1800)の作品であることがわかる。この年、関西へ旅をしている。富士山を多く描く文晁であるが、山が前景に描かれ、箱書にあるように「甲州」と考えれば、中山道を旅した際の図であろう。文晁は堂号を「写山楼」と号し、清宮秀堅著『雲煙所見略伝』に書かれるように、富士山を好んで描いた。描かれる富士山の頂上は、他作品に多くあるように冠雪している。文晁38歳の作である。

渡辺崋山 秋景山水図(倣藍瑛山水図)

画面右上に「倣藍瑛法王蒙図 華山静」とある。明末期の画家藍瑛(1585〜1664?)が王蒙(1308〜1385、元末明初の画家で、元末四大家の一人。王維・董源・巨然ら古名家の法を学び、構成力のある独自の山水画を作る。)の筆法に法って描いた山水図を崋山が写して描いたものである。藍瑛の描いた秋景山水図としては静嘉堂文庫美術館に現存している重要文化財がよく知られている。この作品の谷文晁による摸本も同美術館に所蔵されている。藍瑛は明代に盛んになった折派を統合し、さらに過去の諸大家の筆法を整理した。18世紀以降の谷文晁一派にこれらの藍瑛作品は積極的に受容されている。原本を見ることはかなわぬが、荒々しく感じられるこの作品も若き日の崋山が自らの感じたままを眼前の紙本に力強く表現した勢いを見る者に感じさせてくれる。

渡辺崋山 夏山欲雨図

夏の山を墨点で表現した典型的な山水図である。この画題も文人画家から非常に好まれたものである。「米襄陽の筆意に法る、時に総房の快風を迎え、全楽堂に於いて竣ゆ」とある。米襄陽即ち宋代に活躍した米元章(1051〜1107)の筆法に法り、緑の深い瑞々しい夏山を米点をダイナミックに積み重ねることで表現したものである。簡略な筆で静寂な雰囲気を醸し出すことに成功している。若き日の崋山の勢いを見ている者に感じさせる作品である。

渡辺崋山 翠陰消夏図

北宗画的な山水図である。文政年間の縮図冊にも、室町幕府の御用絵師として活躍した画僧、周文(生没年未詳)や池大雅(1723〜76)らの山水図が多く見られる。款記に「法李青蓮」とあり、唐代の詩人李白(701〜762)の作品にならったものと考えられる。巧みに連続配置された遠山から中景の霞を経た遠近感と近景のリズミカルな並木越しの庵とのバランス感覚は素晴らしい。
近景から中景にかけての奥行に広がりのある雄大な構図、繊細な筆致で描かれた屏立した山水の景は深遠である。木々の葉、並木の間の小道、高士が見える川に突き出た庵、川に向かって落ちる瀑布、その全てが画面全体に統一感を与える重要なモティーフとなっている。

渡辺崋山 桃李園夜遊図

崋山の「桃梨園夜遊図」の落款に「山本氏の為に寫す」とある。崋山周辺で「山本氏」といえば、山本琹谷のことであるが、特定はできない。月夜の梅花の下、音曲と詩作にふける高士たちを描く。青白く浮かぶ満月に照らされて人々が着ている赤や青の服が画面を引き締める。

渡辺崋山 高士観瀑図

天保八年五月、崋山45歳の作。青山を遠くに、枯木が天を突く。その岩山を回流する溪水は大瀑布となり高士の耳目を驚かす。近景では、群流となり流れ落ちる。左上の賛詩を附す。「豁開青冥巓、 出萬 泉、如裁一條素、白日懸秋天 丁酉蕤賓月寫於全楽堂南楼 崋山登」。廣大なる青空の嶺より、そそぎ出る万丈の泉水は、一条の白絹を切り断つ如く、陽光輝く秋の空にかかる。

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