平常展 陶磁器 - 幽玄の美を求めて

展示期間 平成19年2月8日(木)〜平成19年3月18日(日)
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 今回は伝統的であり個性的である、様々なスタイルの陶磁器が揃いました。静かに佇む作品・・・。これらの作品は、‘美’の追求のために海を渡り学んだ陶工たちのロマン溢れる思いが込められています。心ゆくまでご鑑賞ください。

陶磁器メモ

●志野(しの)

 桃山時代に美濃の諸窯で焼かれた白釉陶器。俗に百草土(もぐさど)と呼ばれるざんぐりとした灰白色の素地に、長石質の失透白釉が厚くかかったものが基本で、これは無地志野と呼ばれ、釉下に鉄絵で文様が描かれた絵志野に、遺品が最も多い。さらに、鬼板と呼ばれる酸化鉄を一面に塗った鼠志野、鬼板のかわりに黄土を用いた紅志野、鬼板が薄い赤志野、赤土と白土の素地を練り上げた練上志野など、多様な作陶が展開された。作風には黄瀬戸のような中国陶磁の影響は薄く、茶碗・水指・向付・鉢・香合といった茶道具に独創的な造形をつくりあげ、むしろ一部唐津焼との関連や備前焼との類似が指摘されている。

●織部(おりべ)

 桃山・江戸時代の美濃陶の一種。名称は指導的な茶人古田織部の好尚をもった陶器という意。古窯跡は岐阜県の土岐市・瑞浪市・可児市一帯に広がっているが、中でも土岐市久尻元屋敷の連房式登窯で慶長・元和(1596〜1624)頃、優れた作品が製作された。特有の緑釉や鉄絵、素地に白土や赤土を併用して、総織部・絵織部・鳴海織部・赤織部・唐津織部・志野織部など、多様な作風のものがつくられた。

●黄瀬戸(きぜと)

 桃山時代美濃焼の主要製品の一つ。古瀬戸の黄釉の系譜をそのままひいた光沢のある黄釉と、油揚手と称する失透性の潤いのある黄釉とに大別され、特に後者は黄土が加えられてつくられた桃山期の特色ある釉である。これらの黄瀬戸は器形が中国陶磁をふまえた端正な様式のものが基本であり、俗にタンパンと呼ぶ緑彩が点じられて、あたかも黄地緑彩の効果をもっている。

●灰釉(かいゆう)

 広義には、溶媒として灰を加えた釉薬のことで、鉛釉、ソーダ釉などより高火度(1250度以上)でなければ溶融しない。高火度で焼く窯では、器に降りかかった灰によって素地の珪酸分が溶け、器表に自然に釉が生じることが多く、これを自然釉と呼んでいる。狭義の灰釉は、この自然釉の発生に着目して、意識的に灰を水や泥と混ぜたものを器面に施して釉を生じさせたものをいう。

●白磁(はくじ)

 白地の素地に透明釉を施した白色の磁器。素地はカオリン質の磁土を用い、釉も無色のものをかけるのが理想であるが、素地が鼠色で白化粧した半磁胎の場合や、釉に青味や黄味がさした場合など、さまざまな微妙な変化があり、これらも広く白磁と呼ばれている。白磁は南北朝後期に、はじめて中国でつくられ、唐時代には?州窯(窯の所在は不詳)、宋時代には定窯・景徳鎮窯、元明清には景徳鎮窯が名窯として知られている。朝鮮では李朝時代に白磁は特に愛好された。日本では江戸時代初期に九州有田で白磁の焼造が始められたが、多くは絵付磁器の基礎としての白磁であって、純粋な白磁は日本ではあまり発達しなかった。

●角福銘(かくふくめい)

 角形の枠取りの中に「福」字の銘を入れたもの。角福印に同じ。通常は二重線の角枠が多い。中国磁器の影響により1630年代ごろから有田の作品に現れる。吉祥を意味する銘款の一つで、とくに窯場や作者を示すものではなく、肥前の各窯場で自由に用いられた。初期のものは篆書体の「福」字で、印のサイズは一般的に小さい。1650年代になると銘款は大きいものが増え、一重の枠取りもみられるようになる。1670年代から80年代になると草書体になり、旁の田の字が渦を巻く、いわゆる渦福銘が出現する。角福銘は柿右衛門窯から多く出土しており、伝世品も上手のものが多い。このため、酒井田柿右衛門の銘款と考えられる風潮があるが、実際は肥前のさまざまな窯でこの銘款が用いられている。渦福の描き方も丁寧なものから粗雑なものまであり、作品自体の文様の表現や成形などの技術にも各窯ごとに差がみられる。また18世紀になると渦福は除々に粗略な描き方に変化し、18世紀後半にはほとんど姿を消す。1800年ごろになると「福」字の田の部分が×印の書体が現れる。明治18年(1885)には、渦福の角福銘を11代酒井田柿右衛門が商標登録し、以後、渦福銘のあるものは柿右衛門窯の作品を意味するようになる。しかし、帝国窯業の小畑秀吉の出資を受けて大正8年(1919)に設立した柿右衛門焼合資会社を、12代柿右衛門が昭和3年(1928)に離れたことから、以後、角福銘は柿右衛門家では使えなくなり、「柿右衛門作」の銘を用いた。このことから同44年までは合資会社による角福銘の作品と、柿右衛門窯による「柿右衛門作」銘の作品が平行して存在した。同年に角福銘は合資会社から柿右衛門窯へ返還されたが、その後使われることはなくなった。

●九谷焼(くたにやき)

 石川県南部で江戸時代以来焼き継がれている陶磁器の総称。
江戸前期の古九谷、江戸後期の再興九谷、明治以降の近代九谷と現代九谷とに分類される。また、その地域の特色を加味して江沼九谷・能美九谷・金沢九谷の分類も用いられる。 「九谷焼」という名称の初出は、金沢の家柄町人、浅野屋次郎兵衛浄全の茶会記「?月庵日記」の貞享3年(1686)10月2日の頃で、大聖寺藩家老神谷兵庫の茶会で「九谷やき水指」を使用したとある記事である。 江戸前期に稼動し九谷古窯跡からも「明暦弐歳九谷八月」(1656)の染付銘をもつ陶磁片が出土しており、窯の所在地である加賀国江沼九谷村(現石川県江沼郡山中町九谷町)の地名が記されており、当時、この地でやきものが焼かれていたことは確実である。いわゆる古九谷の産地については、その名称を同時代において「古九谷」と呼称していたことは無論ありえないが、九谷古窯素地による伝世品が存在すること、近年、窯跡に近接する九谷A遺跡でやはり古窯素地による色絵陶磁片が出土したこと、また再興九谷以降の継承性を含め、いわゆる「古九谷伊万里論」のなかで、すべての古九谷を伊万里産とする主張は再考を要すべきであろう。 江戸後期には、九谷の地で江戸前期に創始された陶業の再興を目指したいわゆる再興九谷の各窯が現れる。例えば、吉田屋窯は九谷古窯1号窯の向かって左側に窯を築き、文字どおりその継承を目指した。のちに山代村に窯を移したことから、吉田屋文書では「九谷焼仕入之覚並ニ山代焼之覚」と、窯の所在地でその名称を分けており、九谷焼の名の新たな使用例がみてとれる。また、文政12年(1829)に頼山陽が折橋儀左衛門に宛てた書簡の中で、「九谷焼毎度折角相楽申候…いつぞやの菓子鉢は当今の磁と存候処古窯の由観物皆々ほめ申候」と記しているが、ここでの「九谷焼」は明らかに吉田屋窯の作品を指しており、しかもそれは、「古窯」と見間違うものであったと記され、ここで初めてそれぞれを別する呼称が必要となったものと思われる。それに対応するのが,大聖寺藩士奥村永世が九谷村を天保9年(1838)に訪れた時の記事で、「昔当村にて、田村権左衛門・後藤才次郎陶器細工致しけると也。当時九谷焼と称し、甚だ賞翫に及べり。九谷の社に古九谷焼花立一対あり」として、九谷古窯の時代には「九谷焼」と呼ばれたものに「古九谷焼」の名を付している。また大聖寺藩士岡村鶴汀の道具帳には、安政4年(1857)に求めた徳利が「新九谷金襴手」と記されているが、年代からみて宮本屋窯の製品を指すもので、この場合「新」とは吉田屋窯に対してのことと考えられる。また宮本屋窯の末期に初めて「九谷」銘が製品に記されたこと、さらにその経営を引き継いだ窯が九谷本窯の名をもったことなど、吉田屋窯直系の諸窯こそ、文字どおり九谷での陶業を始原とする九谷焼であるとする主張もあった。しかしながら、吉田屋窯に先立って開窯された春日山窯では、九谷からわざわざ陶土を取り寄せ、かつての九谷の再興という意図をもって試し焼きしており、また春日山窯の陶工本おお貞吉が若杉窯の主工となるなど、陶工たちは各窯を広範に渡り歩いていることからみても、江戸後期の再興九谷についてこのような狭い定義は実態として有効ではなく、今日では用いられていない。技法の特色は、古九谷では色絵と青手の二つがあり、前者は白素地をのぞかせながら赤・黄・緑・紺青・紫の五彩で絵付けされ、後者は素地を塗り埋め、さらに五彩のうち赤を除いた二彩もしくは三彩で賦彩されている。呉須の線描きの上に絵具を厚く盛り上げる手法が多く用いられており、赤以外のほかの四彩は透明なため、その上に置かれた絵具と呉須が重なることでまた異なった色合いとなり、色彩表現を多様に広げている。この手法は現在の九谷焼にも受け継がれている。器形は平鉢類が最も多く、意匠は実に多岐にわたり、重厚華麗な絵付けを施す。再興九谷では陶工たちの交流を盛んに行いながらも、各窯それぞれに特色をもつようになる。まず春日山窯では青木木米の指導により呉州赤絵写しなどを主体にしており、続く民山窯では赤絵細描の筆致を生み出し、のちの八郎手の先駆となった。若杉窯は長期の活動のなかで、日用品の量産を行い、色絵以外に染付の作品にもみるべきものが多い。吉田屋窯は青手古九谷の手法を受け継ぎながら、一種特有の軽快な作風をもつ良品を量産することに成功し、再興九谷のなかでは最も高く評価されている。その後を受けた宮本屋窯は赤絵細描の八郎手と呼ばれる独自の作風を開いた。さらに、九谷庄三は洋絵具による中間色を自在に使いながら、金彩も加えた独自の彩色金襴手、いわゆる庄三風を確立し、一世を風靡する。以後庄三風は競ってつくられ、ジャパン・クタニの名で欧米への輸出を飛躍的に伸ばし、九谷焼が明治前期に隆盛を誇る源泉となった。その一方で江沼・能美・金沢の地域の特色が明確になるのも近代の特色である。また、経営は問屋主導となり、素地と絵付けの分業体制がさらに進められた。現代はそうした体制をもちながらも、個々の工房や作家それぞれに特色を出す努力がなされており、展覧会出品に意欲を注ぐ傾向が強く、日展や日本伝統工芸展などに入選者を輩出し、受賞者も多い。細字や青粒、釉裏金彩や釉裏銀彩など新たな工夫を加えながらも、構成や発色など色絵付けは古九谷に規範を求め、そこから新しい表現を引き出すなど、各作家がそれぞれ個性豊かな表現を展開している。現代の代表作家には、文化勲章を受章した二代浅蔵五十吉、国の重要無形文化財保持者の三代徳田八十吉・吉田美統が挙げられる。また九谷焼の伝統技法の継承と発展を目的に、昭和51年(1976)に石川県指定無形文化財保持団体として九谷焼技術保存会が結成された。同59年には石川県九谷焼技術研修所が設置され、後進の育成と業界の指導助言にあたっている。