●渡辺如山 展観録 天保3年(1832)
表紙に「第五 計□冊 展観録 壬辰仲春 廿有一日 如山記」とあり、裏表紙には「八十九枚」とある。ページをめくると、植物、鳥、人物、鏡など身近な物をスケッチしている。そして、その間に時々書、または漢詩の勉強であろうか、書き写しの文字が含まれている。若い如山が様々なことに関心を寄せていたことがわかる。
●渡辺如山 客坐縮臨 天保3年(1832)
表紙に「第一 客坐縮臨 華亭記 計三」とあり、「山中青p蔵」や「立原氏蔵」との書付や沈南蘋・ヲ南田・張秋穀・江稼圃などの中国作家の様々な絵画や書、秀吉像や柿本人麻呂の摸写もあり、123丁からなり、「華亭」は如山の号である。師である椿椿山や兄である崋山の指導で、十代の自分の力としていたのであろう。
●渡辺崋山 田原市指定文化財 御母堂栄之像画稿(ごぼどうえいのぞうがこう) 天保年間
崋山の母は、旗本で摂津国(現大阪府)高槻藩主の永井大和守の家臣河村彦左衛門の娘にあたる。二十二歳で崋山を生んだ。
崋山が四十歳の時に書いた『退役願書稿』(重要文化財・田原市博物館蔵)によれば、「唯母之手一つにて、老祖・病父・私共、其日を送候事故…」「私母、近来迄夜中寐(寝)候に、蒲団と申もの、夜着と申もの、引かけ候を見及不申、やぶれ畳之上にごろ寐(寝)仕、冬は炬燵にふせり申候。」と書き、非常に苦労していたことがわかる。渡辺家には、この作品の稿と考えられる作品(田原市博物館蔵・田原市指定文化財)があった。画面中央左に「全楽堂文庫」印が捺されている。元は渡辺家にあったものであろう。崋山が田原幽居中に描いたものと考えれば、七十歳頃の姿である。
●渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
●渡辺如山 [わたなべ じょざん] 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
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